「原町の歴史から戦争と平和について考えよう」南相馬市が郷土と戦争に関するコラムを掲載

 

南相馬市および、南相馬市博物館は、18日に南相馬市のWEBサイトにて「原町の歴史から戦争と平和について考えよう」というコラムを発表しました。

コラムによると、南相馬市の前身の1つである原町(現:南相馬市原町区)は、昭和6年に「昭和の恐慌」からの脱却と地域発展を目的に、飛行場の誘致活動を実施。活動開始から5年後の昭和11年11月4日に、埼玉県の所沢飛行場から6機の飛行機を迎え、雲雀ヶ原飛行場を開場させました。

その翌年には県営飛行場とし、その後昭和15年6月には陸軍の熊谷陸軍飛行学校原町文教場、そして昭和19年には鉾田教導飛行師団原町飛行隊と改称された歴史を有しています。

また、戦争末期には、特別攻撃隊(特攻隊)として、爆弾を抱えた飛行機で米軍の戦艦に体当たりする自爆攻撃(特攻)を行うことを決め、昭和19年10月25日のフィリピンのレイテ沖海戦で、海軍神風特別攻撃隊(カミカゼ特攻隊という名で知られる)「敷島隊」5機により、海軍が組織として採用した初めての体当たり攻撃が行われ、その中の当時19歳で原町出身の中野磐雄海軍一等飛行兵曹がおり、短い生涯を閉じたとのことです。

▲出撃前の神風特別攻撃隊敷島隊(兵士5人のうち、左から2番目が中野兵曹)(C)南相馬市

その後、劣勢となった日本軍は、特攻隊を原町飛行場で編成、そのまま沖縄に飛び立ち、散っていった部隊もあったとのことです。さらに、南相馬市は、東北で初めて空襲を受けた地区でもあり、市内には多くの慰霊碑があるほか、南相馬市博物館では、原町飛行場に関する常設展を設けることで、戦争の歴史を紹介しています。

戦後75年となる今年。改めて、戦争について考えてみる機会にすると共に、教科書には載らなかった郷土と戦争について学ぶ機会を得てみるのは如何でしょうか?

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