【76年目の記憶 語り継ぐふくしまの戦争(1)】左肩に残る弾の破片

 

 「生き残れた理由はただの『運』でしかないんだ」。昭和村野尻の佐藤庄市さん(98)は一九四四(昭和十九)年、ビルマ(現ミャンマー)北部バーモの日本軍守備隊として戦った日々を思い返す。今日の戦友が明日にはいない。死線をさまよう連続だった。 

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 中国との国境に近いバーモはイラワジ川のほとりにある。県庁が置かれ、白壁に赤レンガの建物が並ぶ都市だった。佐藤さんら捜索第二連隊を基幹とする千人余りの守備隊は一九四四年秋以降、最新装備を擁する数万人の中国軍に囲まれていた。 

 敵は十二月初めに市街に迫り、砲爆撃は激しさを増した。軽機関銃や手りゅう弾で戦う自軍との戦力差は明白だった。食料や弾薬も足りなかった。倒れた敵兵の武器を奪い、血と汗、泥まみれで戦った。十二月二日には敵の迫撃砲弾が潜んでいた壕(ごう)を直撃。弾の破片が肩や腰に食い込んだ。 

 ある夜に五人で穴を掘り、壕を築いた。ほどなく「お前は入れない」と上官から告げられた。隠れる場所を探し、二十メートル先の別の穴に入った。にぎり飯を食べてうとうとしていると、敵機が三機飛来した。爆弾投下や機銃掃射がやんだ後に穴を出た。上官らの壕には大穴が空いていた。一緒に入っていたら死んでいた。 

 別の夜には破甲爆雷を抱き、敵陣地に迫る「決死行」を命じられた。暗闇に紛れて敵の前まではい進み、手りゅう弾と爆雷を投げ込んで戻った。十二月十五日に生存者約八百人が突撃により包囲網を破って脱出に成功。終戦に伴い武装解除され、一九四六年五月に古里に生還した。 

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 九人きょうだいの長男として生まれ、父正平さんの左官業を手伝っていた。十九歳で陸軍に志願し、一九四三年四月に仙台の第二師団に入隊。南方戦線を戦う捜索第二連隊に転属される一員に選ばれた。 

 連隊に合流する前にも数々の苦難に直面した。北九州から最初の防衛地スンバ島に向かう経由先のチモール島沖では船が空襲され、多くの仲間を失った。ジャワ島スラバヤに上陸後はマラリアなどで長期入院し、死を覚悟した。 

 ビルマ戦線の日本兵は悲惨な戦いを強いられた。若くして散った戦友らの哀悼と「彼らは何のために死んだのか」という憤りを胸に戦後を生きた。新聞販売店や左官業で働きながら原稿用紙に戦歴をつづった。八十歳を過ぎて体験記として本にまとめた。 

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 手紙をやり取りする戦友が大勢いたが、近年は一通の年賀状も来なくなった。歳月の経過を感じつつも「レントゲンにくっきり映る」という左肩に埋まった迫撃弾の破片が古い記憶を蘇らせる。 

 体験記は「戦争は孤独であり恐怖であり残酷、悲惨である。二度とあってはならない」などの警句で結んでいる。百十ページの自著を読み返し「人同士が殺し合うとんでもない罪悪だ」と繰り返した。 

※ビルマ戦線とは

 太平洋戦争の開戦から間もなく、タイに進駐していた日本軍は南方資源の確保や米英による中国への支援の寸断を目的に英国領ビルマ(現ミャンマー)に侵攻した。1942(昭和17)年5月にはほぼ全域を攻略した。44年のインパール作戦失敗後は連合国軍の反攻を受け、45年5月にラングーン(現ヤンゴン)が陥落した。戦力差に加えて過酷な自然環境や物資の窮乏に苦しみ、多くの戦死者や病死者を出した。

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