【76年目の記憶 語り継ぐふくしまの戦争(3)】空襲に遭遇 校舎に爆風、兄は戦没
いわき市四倉町の長谷川栄子さん(89)は兄勝美さんの記憶がほとんどない。勝美さんは太平洋戦争の戦地に赴き、二十五歳の若さで亡くなった。最後に会ったのは九歳のころだった。「どんな人だったのだろう」。自宅の仏壇に飾っている遺影を見るたび兄に思いをはせる。同時に大切な家族を奪った戦争への憎しみが込み上げる。
四倉町(現いわき市四倉町)で木造船の製作に携わっていた勝美さんは、二十歳のころに徴兵された。栄子さんは、戦地に向かう勝美さんを両親とともに見送った。「『お国のために』戦いに行くんだ」。幼いながらに誇らしく感じたことを今でも覚えている。「必ず帰ってくる」と信じて毎日を過ごしていた。ただ、戦争の脅威は四倉町にも迫っていた。
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一九四四(昭和十九)年夏、空気を切り裂くような重低音をとどろかせ、米軍の艦載機が四倉沖を襲撃した。「バババッ」。猛烈な音が響き渡る。停泊していた船が機銃掃射を浴びた。当時、四倉国民学校(現四倉小)六年生で十二歳だった栄子さんは、港から数百メートル離れた自宅で、何度も水しぶきが上がる光景を目にした。「戦争はこんなにも恐ろしいのか」。生きた心地がしなかった。
翌年七月の平空襲では、市街地に焼夷(しょうい)弾が投下された。当時、磐城高等女学校(現磐城桜が丘高)に通っていた栄子さんは、校舎の中で「ドカーン」というすさまじい音を耳にした。爆風で窓ガラスが割れ、破片が飛び散った。すぐに机の下に逃げ込んだ。しばらくして立ち上がると、目の前にいた友人が顔を切り、血だらけになって苦しんでいた。あまりの惨状に言葉も出なかった。「一刻も早く、戦争が終わってほしい」と強く願った。
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一九四五年八月十五日、ラジオで玉音放送を聞いた。内容は詳しく分からなかったが、戦争が終わり日本が負けたことは理解した。勝美さんは帰ってこなかった。遺骨も戻らず、いつまでも死を受け入れられなかった。
兄の生きた証しを知りたい-。終戦から三十年が過ぎたころ、思いが強まった。出征先や亡くなった理由を国に尋ねるなどして調べた。勝美さんは陸軍の二等兵として中国東北部の満州や沖縄での戦いに従事していた。沖縄戦の最中に体調を崩し、終戦の約一カ月半前の六月二十六日に戦病死したと知った。「もう少しで戻ってこれたのに」。悔しさが込み上げた。
勝美さんの死から七十六年後の夏を迎えた。お盆と彼岸には、今でも必ず自宅近くの寺にある墓を訪れる。手を合わせながら平和の尊さを心の中で語り掛け、不戦の誓いを新たにする。
「戦争は悲劇しか生まない。もう二度と繰り返してはいけない」。遺族として願い続けている。
※平空襲 1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲に加わった大型爆撃機「B29」がいわき市平に襲来。落とされた焼夷弾により、市街地一帯が焼かれ、家屋500戸以上が炎上した。7月26日には、平第一国民学校(現平一小)に1トン爆弾を投下。校舎にいた校長ら教職員3人が命を落とした。同月28日にも平市街地に焼夷弾が落とされた。計3回の空襲で多くの市民が犠牲になった。