最愛の娘奪った津波 それでも海憎めず、漁師として生きる #知り続ける
悠さんの文字が残されたノートを手に娘への思いをにじませる父の範雄さん
2023/03/08 13:24
東日本大震災の津波は沿岸部で暮らす人々の平穏な日常を破壊し、愛する家族の命を一瞬で奪い去った。今年、遺族にとって一つの節目となる13回忌を迎える。津波に押し流された街は復興が進み、被害を思い起こさせる風景も少なくなった。ただ今も、夢に向かって歩んでいたあなたの姿を忘れたことはない。遺族に震災当時を振り返ってもらい、12年を経た今の思いを書き記す。
■娘を失った海で生きる
福島県相馬市の高橋悠(はるか)さん=当時(18)=は、2011(平成23)年3月11日、通っていた常磐山元自動車学校(宮城県山元町)で他の教習生とともに津波の犠牲になった。「港で船を迎え、大漁を喜んでくれた娘の顔を今でも思い出す」。漁師の父範雄さん(63)は、まな娘を失った悲しみをこらえる。
範雄さんはあの日、前年に新造した「第五恵永丸」を津波から守るため1人でかじを取り沖に出た。迫り来る巨大な波を何度も乗り越えた。沖で一晩を過ごして迎えた12日朝、妻のゆう子さん(61)から電話で告げられた。「悠から連絡がない」。急いで港に戻り、山元町の避難所を回った。
手掛かりがなく、14日に再び宮城県内を探した。最後に足を運んだ角田市の遺体安置所で、悠さんを見つけた。泥だらけの体はシートにくるまれ、静かに横たわっていた。「信じられなかった」。2人は目の前の光景に言葉を失った。納棺の日、成人式のために作っておいた晴れ着を着せ、悠さんを見送った。
■生きていれば30歳の娘「会いたいな」
悠さんは1993年に生まれた。2人の兄に続く待望の女の子は家族みんなに愛され、のんびり屋だが優しく朗らかに育った。中学まで陸上長距離に打ち込み、相馬高ではバスケットボール部のマネジャーに転身。献身的にチームを支え、多くの仲間ができ、後輩からも慕われた。子どもが好きで、保育士を目指していた。「卒業後は相馬に戻る」。両親と約束し、東京都内の短大に進学が決まっていた。
悠さんが生きていれば今年で30歳。津波に遭わなかったら、古里で保育士の夢をかなえていただろうか。結婚して家庭を持ち、夫や子どもと楽しく暮らしていただろうか―。範雄さんとゆう子さんは、娘と過ごした何げない日々や娘の優しい笑顔を忘れることができない。
「悠に会いたいな」。ゆう子さんはかみしめるように絞り出した。
悠さんは中学生の頃、港に水揚げした魚の選別をよく手伝ってくれた。高校生になると、父と言葉を交わす機会は少なくなった。それでも娘は、海で働く父の姿を頼もしく感じていたのかもしれない。
「お父さん 頑張れ」。悠さんは生前、漁場などを記録するために範雄さんが船の機関室に置いていたノートに、父を案ずる思いをこっそりと書き記していた。
相馬双葉漁協で拡大操業検討委員長を務める範雄さんは、本格操業再開による漁業復興を目指し、次男の圭さん(33)らとともに日々、小型船漁に励む。船内の引き出しの奥にしまった大切なノート。悠さんの記した優しい文字が、自分たちの船をずっと見守ってくれるような気がする。
12年前、最愛の娘は津波に奪われた。でも海を憎むことはできない。「悠も相馬の海が好きだった。震災前のような活気ある浜を取り戻し、あいつに見せてやりたい」。それが娘への供養になると信じ、これからも海と生きていく。
※この記事は、福島民報とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。