白河焼再現挑む、いかりや窯十三代目山田さん 浪江から避難、第二の古里に恩返し

 

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で浪江町から避難し、白河市大信に工房を構える大堀相馬焼いかりや窯の十三代目山田慎一さん(50)は、江戸時代に市内で生産されていた陶器「白河焼」の再現に乗り出した。「自分たちを温かく迎え入れてくれた土地に感謝し、地域活性化に貢献したい」。震災、原発事故から丸十年を迎えようとする今、第二の古里で新たな挑戦をする。

 山田さんは二〇一一(平成二十三)年六月、白河市に移り住んだ際に白河焼の存在を知った。「地域とのつながりを深めるきっかけにできないか」。早速、制作を試みようとしたが、市民の間にほとんど浸透しておらず、存在を知らない人も多かった。

 市などによると、生産は江戸時代で途絶えたと推察され、現代に詳しい製造方法は受け継がれていない。伝統を継承することの難しさと大切さ-。避難を余儀なくされ、後継者不足に悩む現在の大堀相馬焼の窯元と重なった。「かつて培われた文化に日の目を見せたい」。二年ほど前から、改めて白河焼の調査を始めた。

 市歴史民俗資料館によると、白河焼は江戸時代後期に白河藩主松平定信が小峰城の瓦師、小林覚左衛門に県内や近畿地方で修行を命じて作らせた陶器で、現在「白河焼」という通称で呼ばれている。山田さんは資料館に展示されている数少ない実物や写真を観察したり、当時の文献を読み込んだりして使用している粘土や釉薬(ゆうやく)を独自に模索した。

 地域住民から市内五箇地区と西郷村で陶土が採掘されていたという情報を得て、五箇地区の休耕田で土を採取した。色や質感を忠実に再現するため、滋賀県の信楽焼に使用される粘土をブレンドし、試作品用の粘土を作り上げた。白河焼の定義や技法ははっきりしておらず、培った技術や経験を元に手探りで試行錯誤を重ねる。

 年明けに仕上がった茶わんの試作品は薄いピンク色が印象的だ。今後、さらに粘土や釉薬の配合などの改良を重ね、現存する茶わんに近づけていく。文献の解読や土を採掘する場所の再検討など、課題は多い。「外見をできる限り近づけ、白河焼の周知につなげたい」と意欲を示す。

 白河焼を再現できれば、市立図書館や公民館に展示したいと考えている。市民に気軽に触れてもらうことで、「かつての地場産業の存在を知ってもらうきっかけになるはず」と力を込める。

 目指すのは地域で採掘した土を使った“オール白河”の陶芸品。地域活性化や観光振興にもつながることを期待する。「焼き物で白河への感謝の気持ちを表現したい。将来的に市の特産品になれば、うれしい」。陶器に思いを乗せ、挑戦を続ける。

※白河焼 市歴史民俗資料館によると、江戸時代後期の白河藩主松平定信が小峰城の瓦師、小林覚左衛門に県内や近畿地方などで陶芸の修行を命じ、作らせた陶器で、現在は「白河焼」という通称で呼ばれている。茶わんや香合、水差しなど五点前後が県内外で確認されており、そのうち数点の裏面に白河藩が作らせたことを示す「白川製」という刻印がある。現存する資料が少なく調査が進んでいないため、製造方法や原材料などの詳細は明らかになっていない。

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