津波で消えた街並み 新地町【震災・原発事故10年ルポ】

 

■震災前・相馬支局長 鈴木俊哉

 新地町のJR新地駅周辺は、首都近郊に新設された鉄道の駅前を見るようだ。真新しい駅舎の前で、しゃれた飲食店や文化交流センター・観海ホール、天然温泉を備えたホテルが目を引く。常磐線を挟んだ東側には天然ガスを使った地産地消のエネルギーセンターがある。町内が震度6強の揺れに見舞われたつい先日の十三日の地震でも、電気や温水を安定供給できた。

 駅から程近い海岸の手前には釣師防災緑地公園が広がる。十八ヘクタールの広大な土地に、起伏に富んだ自転車用競技コースや子ども向け遊具、キャンプ場などがある。

 東日本大震災前は漁港や海水浴場につながる集落があった。公園を通る道路は元々の公道跡に造ったというが、街並みが思い出せない。

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 二〇一一年三月、大きな揺れにおののいた翌日、新地町に向かった。震災から十年近く前、相馬支局勤務時代に毎日のように訪れた町だ。

 予想はしていたつもりだった。しかし、目の前に広がる光景は、私のちっぽけな覚悟をはじき飛ばした。

 街が丸ごとない。壊れた建材や家財道具が引き切らない潮の間を埋めていた。以前は立ち並ぶ住宅に視界を遮られていたはずの海が遠くに見える。牙をむいたことがうそのように穏やかだった。

 辛うじて跨(こ)線橋が残った新地駅のそばには、くの字に曲がった電車が横たわっていた。言葉が出ない。経験したことのない感情が込み上げ、あふれ出す涙を抑えられなかった。列車に乗り合わせた警察官の機転で、一人の犠牲者も出さずに避難できたことを知ったのは数日してからだった。

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 新地町は、沿岸部を「災害危険区域」に指定し、住民の集団移転を進めた。津波の心配のない地域に、里山を切り開いて七つの住宅団地を設けた。元の集落の近所付き合いに配慮し、被災者一人一人の意向を聞いて住む場所を決めてきた。

 防災緑地になった釣師地区に住んでいた横山隆さん(70)は雁小屋団地に移り住んだ。今月十三日の地震で屋根の瓦が落ちたり、壁にひびが入ったりするなどの被害は出たが、「高台だし、大きな不安はなかった。何より慌てずに行動できた」と振り返る。

 新しい団地の区長として八十五世帯を束ねる。「住民同士が楽しく、安心して生活できることが一番」と地区の融和に心を砕く。ウオーキングやもちつきなどのイベントを重ね、新しいコミュニティーも育ってきた。

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 防災緑地公園の管理棟に、震災前の釣師地区の五百分の一サイズのジオラマがある。住民らが協力し、建物の色まで忠実に再現している。目線を低くして見つめると、懐かしい情景が浮かんだ。

 隣の大戸浜地区の高台に転居した漁業者の小野春雄さん(69)は「集落がなくなっても思い出は残る。釣師の歴史を伝えていかなくちゃいけない」と言葉に力を込めた。(現新聞講座推進本部長)

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