全村避難独自に決断 産業再生へ花き生産【震災・原発事故10年ルポ】

 

■葛尾村 震災後・田村支局長 鈴木宏謙 

 田村市から県道浪江三春線で峠を越え、葛尾村に入った。二〇一六(平成二十八)年六月に大半の避難指示が解除されてから約四年八カ月。農地に仮置きされていた除染廃棄物はほぼ消えていた。 

 東京電力福島第一原発事故に伴う全村避難から四年間にわたって同村を取材した。避難区域の再編や事業所の再開など折に触れて村内を歩いたが、脳裏に浮かぶのは田畑を走るイノシシや、通行を制限するバリケード、無人の家々といった当時の光景だ。 

 中心部にある復興交流館あぜりあで、葛尾むらづくり公社専務理事の松本松男さん(64)と再会した。村の地域振興課長や総務課長として避難区域の再編・解除や各種の計画策定に携わり、退職後も古里再生に奔走している。「復興するには、ここから先が本当に大切な時期になる」と村の現状を説明した。 

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 村は地震そのものの被害が少なく、当初は沿岸部から避難者を受け入れていた。ただ、震災翌日の二〇一一年三月十二日には福島第一原発の半径二十キロまで避難指示が広がり、東部が圏内に含まれた。十四日夜に全村避難を決断。約六百人がバスや乗用車で福島市に向かい、十五日夜に会津坂下町に逃れた。 

 元村長の松本允秀さん(83)は国の指示を待たずに村民を守った判断力を評価され、後に国際的な賞を受けた。「最悪の事態を想定し、人命を優先した。『空振り』でもいいと考えた」。役場近くの自宅で静かに振り返った。 

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 村内には現在、約四百三十人が暮らす。民家前の車や室内から漏れる明かりに復興の進展を感じる。居住者数には復興支援員や地域づくり協力隊ら避難解除後に転入した「新住民」約百人も含まれるが、人口の七割近い約九百人は村外にとどまる。村は定住者をさらに増やすため、働く場や住まいの確保を急ぐ。 

 産業再生の先頭を走るのが、かつらお胡蝶蘭合同会社だ。風評被害を受けにくく収益性の高いコチョウランを畜産や葉タバコに代わる特産にしようと有志が会社を組織し、村が施設を建てた。三年目の今、主力品種「hope white(ホープホワイト)」を中心に月約四千株を県内や近県に出荷している。同社の杉下博澄さん(39)は「葛尾を起点に一大産地をつくる」と将来を見据える。 

 村を東西に貫く県道には、帰還困難区域に入ることを伝える看板と、造成したての産業団地の看板が道の両脇に立っていた。十年を経ても「光と影」が混在する村の現実と、課題を乗り越えて進もうとする村民の強さを感じた。(現本社社会部)

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