卒業見届け天国へ 福島東高教諭日高さん 教え子との時間大切に

 

 福島市の福島東高教諭の日高郁子(ひだか・いくこ)さんは、担任する最後の卒業生を送り出した翌日の今月二日、六十年の生涯を閉じた。定年退職までの最後の一年間、がんに侵されていることを周囲に知られぬよう気丈に振る舞い、教壇に立ち続けた。絶対に卒業証書を手渡す-。体調が優れない中でも式に臨み、担任する三年七組の四十人と喜びを分かち合った。「先生、ありがとう」。教え子や同僚は突然の逝去を惜しみ、感謝の念を抱く。

 日高さんは二十年ほど前、初めてがんを患った。その後も何度か転移が見つかったが治療がうまくいき、通常の生活を送ってきた。ところが、昨年夏に再び発症して体調不良となり、抗がん剤治療を始めた。九月上旬には二週間ほど入院し、学校に行けなかった。同僚や教え子には「高熱で休む」とだけ伝えた。

 復帰後はそれまでと変わらず、明るく、時には厳しく生徒と接した。抗がん剤の影響で脱毛したためウィッグを着け、髪型が変わった。「おしゃれな先生」として知られており、生徒は特に違和感を覚えなかったという。

 卒業式当日は朝から体調が悪く、学校の壁を伝って歩くほどだった。三学年副担任の渋川恭子教諭(52)はこの日、日高さんに付き添い、様子を克明に記録した。三階の教室まで行くこともできず、ホームルームは副担任に任せた。車いすで体育館に前乗りし、式に臨む生徒を出迎えた。教え子と接すると、気力がみなぎった。立ち上がり、しっかりとした足取りで生徒を先導した。椅子に座り、クラス全員の名前を読み上げた。

 渋川教諭は、日高さんからがんであることを事前に知らされていたごく一部の同僚だった。日高さんはこの日、体調が特に悪いことを自覚していたが「卒業式に出席して呼名する」と決意していたという。

 式後は保健室で体を休めた。教室に戻るのは難しいため、最後のホームルームは保健室で開いた。そこで初めて、がんを患っていると告げた。皆が言葉を失い、涙する生徒もいた。生徒が下校後、体調が悪化して吐血し、救急車で福島市の病院に運ばれた。翌日午後、安らかに眠りに就いた。

 桑折町の佐藤光雅さん(18)は日高さんの死後、南相馬市原町区の自宅を訪れ、大学合格を報告した。三年間、日高さんが担任で、数学の授業を受けた。最後のホームルームで「将来、お酒を飲もうね」と声を掛けてもらった。日高さんと出会い、教師になる夢を明確にした。高校の数学教師を目指し四月から千葉県の大学に進む。「生徒を一番に考える日高先生のようになりたい」と遺影に語り掛けた。

 三学年の教員が中心となり、保護者や生徒が撮影した卒業式の動画や写真、メッセージなどを募り、アルバム作りを進めている。今月中に日高さんの自宅に届ける予定だ。斉藤章子教諭(52)は「いつも相談に乗ってもらい心強かった。少しでも恩返しになれば」と話す。夫で元相馬高校長の裕志さん(65)は「無事に卒業生を送り出し安心したのだろう。たくさんの人に惜しんでもらい、妻も喜んでいるはず」と感謝する。

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