復興の在り方疑問 拠点だけでは暮らせない【復興を問う 帰還困難の地】(75)

 

 東京電力福島第一原発事故で全町避難を強いられた福島県浪江町は二〇一七(平成二十九)年三月に居住制限、避難指示解除準備の両区域が解除された。

 町内では新たなまちづくりが進む。棚塩地区には世界最大級の水素製造実証拠点「福島水素エネルギー研究フィールド」が整備された。JR浪江駅周辺の市街地再生に向けた取り組みも続く。

 一方、町中心部から三十キロほど離れた津島地区は、帰還困難区域として取り残されている。国は区域内の計約六百六十一ヘクタールを特定復興再生拠点区域(復興拠点)に認定し、二〇二三(令和五)年春までの避難指示解除を目指している。

 津島地区は原発事故前から少子高齢化、過疎化が進む地域だった。「にぎわいを取り戻せるのだろうか」。大玉村に避難している下津島行政区長の今野秀則さん(73)は首をかしげる。

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 津島地区はかつて「津島村」だった。昭和の大合併で浪江町の一部となった。原発事故前の地区内には千四百六十人ほどが暮らしていた。ほとんどが顔見知りで、互いに支え合いながら古里の営みを守っていた。

 近所の人と世間話を楽しみ、美化活動やお祭りなど地域の行事で交流した。笑顔があふれ、穏やかな時間が流れていた。

 原発事故によって住民は県内外への避難を余儀なくされ、ばらばらになった。「避難指示が解かれ、津島に戻ったとしても、昔のような満ち足りた時間を取り戻すのは難しいだろうな」。今野さんには古里の将来を思い描くことができない。

 下津島地区では、多くの住宅で解体作業が進められている。今野さんは自宅を取り壊すかどうか思い悩んでいる。先祖代々受け継いできた歴史がある。子どもたちが使ったランドセルや、通信簿などの思い出の品は残したままで決心がつかない。ただ、「自分の子どもに負担を残すわけにもいかないんだよね」と苦しい胸の内を明かす。

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 今野さんの自宅を含む津島地区は全域が帰還困難区域となった。このうち、復興拠点の面積は約百五十三ヘクタールで地区全体の約1・6%に過ぎない。残る拠点外は国が避難指示解除の見通しすら示していない。合併前は一つの自治体だった地域の大部分が、原発事故の発生から十年が過ぎても放置されている。

 「復興拠点だけが整備されても、津島全体に人が住むことはできない。住民が安心して、笑顔で暮らせる津島に戻してくれ。それが国の責任じゃないのか」。国策として進められる「復興」の在り方に、疑問を抱く。

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