「方向性一日でも早く」将来の決断し切れない【復興を問う 帰還困難の地】(81)
東京電力福島第一原発事故により福島県双葉町からいわき市に避難している農業沢上栄さん(71)は、二〇一一(平成二十三)年三月十二日に水素爆発を起こした福島第一原発1号機の映像を見た時、衝撃とともに不思議な懐かしさを感じた。むき出しとなった1号機建屋の鉄骨は、約五十年前に自らの手で組んだものだった。
双葉町下羽鳥地区で生まれ育った沢上さんは高校卒業後、大手ゼネコンの下請け企業の作業員として、福島第一原発1、2号機の建設に携わった。巨大な原子炉が運び込まれてきた光景を、今でもはっきりと覚えている。
沢上さんは1号機の完成式典に出席し、偶然にも写真撮影で、当時知事だった故木村守江氏と双葉町長だった故田中清太郎氏の後方に立った。耳に入った二人の会話が今も忘れられない。「双葉郡を発展させるには原発しかないよな」
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双葉町と同様、原発と「共存」してきた人生だった。福島第一原発の建設に携わった後、浪江町での水道関係の仕事を経て、三十歳で東電の関連企業の社員となり、再び第一原発で働き始めた。平日は構内に勤務し、休日は稲作に励んだ。自宅では妻洋子さん(68)ら家族九人で、にぎやかに暮らした。「原発の中と農作業が生活の全てだった」
原発事故により、いわき市小名浜に避難した。古里での暮らしを奪われ、生きる気力を失いつつあった沢上さんを救ったのは、農業だった。避難先のアパート近くに耕作放棄地が広がっていた。土地の所有者は体調を崩していた。困っている人の助けになるなら-。再び、農機具を動かした。
その後、市農業委員会などを通じて土地を借りた。原発事故の発生から約一年後、避難先で稲作を再開した。
二〇一八年五月には双葉町の農家らでつくる町農地保全管理組合の初代組合長に就いた。全町避難が続き、荒れ放題となった農地を事故前の状態に戻すことが組合設立の目的だ。当時、避難指示解除準備区域となっていた両竹地区で、水田の雑草を刈り、除草剤をまく作業を始めた。
「豊かな土地を必ず取り戻す」。地道な作業を重ねた。昨年春に体調を崩し、組合長の職を退いたが、現在も組合員として活動を続けている。
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国は帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域(復興拠点)から外れた地域の除染や避難指示解除の方針をいまだに示していない。沢上さんの自宅も拠点に含まれていない。野生動物に荒らされ、解体するしかないと思うが、方針が示されないため手を付けることもできない。
「将来を決断し切れない日々が続いている」。沢上さんは望郷の念を抱きつつ、苦しい胸の内を明かす。「拠点外の方針を一日でも早く示すことが国の責務だ」と訴える。