【あなたを忘れない】命絶えた母添い遂げた父 石田アイ子さん、次雄さん夫婦 福島県双葉町 

 

父次雄さんが手がけた神棚を見つめる賢次さん。亡き両親を思い起こす

 

2024/07/11 09:20

 

 遠くに潮騒の聞こえる福島県双葉町両竹(もろたけ)地区。2011(平成23)年3月11日、東日本大震災の津波は自宅にいた石田アイ子さん=当時(72)=をのみ込んだ。高台にいて難を逃れた夫の次雄さん=当時(75)=は波が引くとすぐに自宅に戻った。東京電力福島第1原発事故による避難指示が出たが、とどまった。すでに命の絶えていた妻を自宅に置いてはいけなかったのだろう。誰もいなくなった町で添い遂げた。「仲の良かった2人だから…」。長男の賢次さん(57)は生前の両親を思い返す。

 地震発生時、アイ子さんは自宅の離れで片付けをしていた。大津波警報が出ていると知っていたとみられるが作業を続け、溺死した。次雄さんは高台にある近くの神社にいた。

 自宅は福島第1原発から約4キロの場所にあり、震災翌日に出された避難指示区域にすっぽり入った。自宅に戻った次雄さんは変わり果てたアイ子さんを見つけ、そばにいることを決断したのだろう。避難途中の住民が次雄さんを見かけて声をかけたが、生返事が返ってきただけだったという。避難区域内で行方不明者を捜索していた警察と自衛隊が2人を発見した時、次雄さんは2階の布団に横たわって亡くなっていた。震災から10日ほどたって亡くなったと推定された。衰弱死だった。

 当時、福島市に住んでいた賢次さんは各地の避難所に連絡を入れたり、ラジオ放送で呼びかけてもらったりして2人の安否確認に奔走した。避難指示によって自宅には近づけず、もどかしさと不安で胸が張り裂けそうだった。震災から12日後、遺体が見つかったと連絡があった。南相馬市の安置所で対面すると、父は痩せ細っていた。救えた命だったと今でも後悔する。「原発事故さえなければ」。悔しさばかりが募る。

 次雄さんは大工や福島第1原発の作業員として働いた。口数が少なく曲がったことが嫌いだった。アイ子さんは温厚で優しかった。3人の子どもを育て、家族の食卓は笑いが絶えなかった。子どもが独立した後は孫の成長を楽しみにしてくれた。「愛情をたくさん注いでもらった」と賢次さんは振り返る。

 賢次さんは次雄さんの背中から実直に生きる大切さを学んだという。高校卒業後、親元を離れ公務員になった。会うのは年に数回となったが、連絡は頻繁に取り合っていた。震災の約1週間前も電話で「今度、双葉に帰るからね」と話した。それが最後となった。

 賢次さんは現在、いわき市で妻由美子さん(55)と暮らす。仏壇の上には次雄さんが作った神棚を飾っている。震災発生から数カ月後に許可を得て実家に入り、持ち帰った。「元気にやっているから心配しないで」「双葉は徐々に復興してきたよ」。毎日、手を合わせて近況を報告する。両親は自分たち夫婦の目標。これからも見守ってね―。そんな思いを込めて。

 

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