震災・原発事故後初開放 学び舎やっと入れた 福島県大熊町の熊町小など 「変わらないね」私物引き取り旧友と再会

 

震災・原発事故の前まで学んでいた4年生の教室でランドセルを手にする鈴木さん(左)

 

2024/02/04 10:35

 

5年生の教室で地震発生時刻を示したまま置かれた時計

 

 福島県の大熊町教委は2日から4日まで、東京電力福島第1原発事故に伴う帰還困難区域にある熊町小と熊町幼稚園、熊町児童館を事故当時の在校生らに初めて開放している。学用品など私物を引き取ろうと、3日は約120人が申し込んだ。東日本大震災と原発事故の発生から13年となるのを前に、訪れた人はかつての学び舎(や)から思い出の品を持ち帰り、旧友との再会を喜んだ。熊町小は震災前の姿で町内に唯一残る学校施設で、町教委が有効な活用策を検討している。

 

 「懐かしい。こんなのあったな」。仙台市の会社員鈴木みつきさん(23)は当時、学んでいた熊町小4年生の教室で声を上げた。かつて級友と肩を並べた机の上には、少しほこりをかぶったピンク色のランドセルや体操着を入れたバッグが上がっていた。壁掛け時計は東日本大震災の発生時刻「午後2時46分」を指して止まっており、黒板には3月11日の日付が刻まれていた。

 壁や引き出しにあった社会科見学の写真や感想文を感慨深く見つめた。「大切に保管したい」としまうと「ずっと校舎に入りたいと思っていた」と笑みを浮かべた。ただ、窓から校庭を眺めると、記憶の中とは異なる風景が目に入った。ススキなど背の高い草が生い茂り、朝礼台を覆い、サッカーゴールの半分ほどまで伸びていた。「うわっ」と驚き、「切ない気持ちになる」と人の出入りが絶えた学び舎の変わりように複雑な思いを口にした。

 熊町小に隣接する熊町幼稚園には、幼なじみと再会した2人がいた。千葉県の大学生新田萌さん(19)と郡山市の専門学校生伏見幹汰さん(19)だ。「久しぶり。変わらないね」と遊戯室で顔を見合わせた。2011(平成23)年3月に卒園を控えていた。室内には修了証書が残されたまま。道具箱が床に散乱している部屋もあった。

 新田さんは園で着ていた制服を持ち込み、記念撮影をして幼少期を思い起こした。「『ここに通ってたんだよ』という証しを残したかった」とほほ笑んだ。伏見さんも体操袋などを手に、園舎への再訪を願った。「また入る機会を設けてくれたらうれしい」と思い出の建物への愛着をにじませた。

 

■熊町小と熊町幼稚園 建物の保存検討 町教委

 震災と原発事故発生前に大熊町にあった町立小中学校3校のうち、大野小は起業家の支援施設として校舎を再利用し、大熊中は解体して跡地にメガソーラーを整備している。震災と原発事故当時、13年前には熊町小には約330人、熊町幼稚園には約160人が在籍していた。大熊町教委は熊町小と熊町幼稚園の建物を解体せず、保存する方向で検討している。

 町民の一部には震災・原発事故の教訓を伝える「震災遺構」としての活用を望む声もあり、資料となり得る私物の持ち出しを含む開放には異論もあった。ただ、町教委は「私物を持ち帰りたい」との要望が元の在校生や保護者から多いことを踏まえ、老朽化が進んで危険性が増す前に、学用品を引き取ってもらおうと開放を企画した。建物の除染はしていないため、短時間の滞在となるが、3日間で約220人が申し込んでいるという。

 震災の津波で行方不明となった次女汐凪(ゆうな)さん=当時(7)=を探し続ける木村紀夫さん(58)も現状のまま保存を求めている。3日に熊町小の教室を訪れ、机に残るまな娘の絵を見つめた。「汐凪がここにいたんだと感じられる」とあえて荷物は持ち帰らなかった。

 佐藤由弘町教育長は熊町小などの今後について「在校生の思いを大切にし、複合災害の風化を防ぐための貴重な資料として施設の活用法を探る」としている。

 

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