【震災・原発事故10年ルポ】原発の白煙に絶句 富岡町 ワイン用ブドウ順調

 

 富岡町に赴任して四度目の冬を終えようとしていた二〇一一(平成二十三)年三月十一日、東京電力福島第二原発近くのごみ焼却施設に向かっていた時に震度6強の揺れに襲われた。乗っていた車が横転しそうな激しさだった。

 地震で倒壊した塀や陥没した道路を避けながら、富岡川に架かる子安橋にたどり着き、沿岸部を望んだ。大津波によって人々の暮らしは打ち砕かれていた。鉄骨だけが残った漁協の建物、水田まで数百メートル押し流されて転覆している漁船…。津波の濁流は無数のがれきとともに富岡川を何度もさかのぼっていた。

 福島第二原発に目を向けると、建屋の煙突から白い煙が立ち上っていた。あの煙はなんだ-。言い知れぬ不安が脳裏をよぎった。

 だがそれは、非常用電源装置が発した水蒸気だったと後に知らされた。津波によって原子炉の冷却機能を一時失った福島第二原発だったが、外部電源の一部が使えたことなどから危機を免れた。

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 一方で、福島第一原発の状況は刻一刻と厳しさを増していた。「セシウムか。これは困った」。震災発生から丸一日が経過しようとしていた十二日午後二時十五分ごろ、当時の遠藤勝也町長(二〇一四年七月死去)は頭を抱えていた。

 町災害対策本部に置かれていたテレビは福島第一原発の危機的状況を伝えていた。基準値を大幅に超える放射性セシウムが検出され、核燃料の一部が溶け出した可能性を報じていた。

 町は約一万六千人の町民に避難を呼び掛け、大部分は既に町を離れていた。だが、対策本部があった町文化交流センター「学びの森」には、町職員や消防団員ら約百人が残っていた。学びの森は福島第一原発から十キロも離れていない。

 遠藤町長は限られた情報の中、決断を迫られていた。「私と本部員は防護服を着て残ります。それ以外の皆さんは避難してください」

 そのわずか一時間後。第一原発1号機建屋が水素爆発で吹き飛んだ。

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 除染やインフラの復旧・復興が進み、帰還困難区域以外の町内の避難指示が解除されるまで、それから六年もの歳月を要した。開業医が地元での診療を再開し、商業施設は震災前と同様に人々の日常を支えている。

 町の価値を高める新たな試みも動き出している。子安橋近くのほ場では、ワイン醸造用のブドウが、陽光を浴びながら順調に育つ。一般社団法人とみおかワインドメーヌが避難指示解除の一年前から栽培を始めた。代表理事の遠藤秀文さん(49)は「町の復興は元に戻すだけでなく、新たなものを生みだすことが必要」と未来を思い描く。

 中央通り商店街の大部分は空き地となった。かつて取材拠点だった旧富岡支局の付近では、民家がほとんどが取り壊され、跡地に建つ単身者向け新築アパートの前に「入居者募集」ののぼりがはためく。

 復興庁の町民意向調査では半数近くが「町に戻らない」と決めているが復興関連を中心に新たな住民の転入も進む。震災後に育まれた人々のつながりが、町の発展に結び付くことを願う。(現喜多方支社長)(2021年02月10日掲載)

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