あの時から10年。その変化を訪ねる
「あの時」からまもなく10年。震災以降、何度も訪れる浜通りを振り返り、3回にわたり当時の状況と今の所感を記します。
■いわきの名所・薄磯海岸の津波被害■
ここに2枚の写真があります。
いわき市薄磯海岸の、2011年3月下旬と2020年8月の写真です。ほぼ同じ位置から撮影したもので、約10年の移ろいがわかります。
私は都内在住ですが、2011年3月当時、毎日新聞の記者でいわき市を取材しました。「福島」の話題は、震災当日の夜以降、原発事故報道であふれかえりました。しかし県内の地震や津波被害については、マスメディア取材者がほぼいなかったこともあり、あまり知られていませんでした。
薄磯海岸は、歌や映画の舞台でも有名な塩屋埼灯台の北側にあり、白砂が美しく、夏は家族連れなどでにぎわう福島を代表する海水浴場です。いわき市のサイトによると、1995年には53万人の海水浴客が訪れたそうで、「日本の渚百選」にも選ばれています。
2011年、その美しい海から大津波が押し寄せ、住宅の土台以外はごっそり流されてしまいました。この地域で数少ない高さのある、旧豊間中学校の建物は、骨格だけ残されました。人気のない静寂な空気感は、今でも印象深く残っています。
当時、少しづつ日常を回復させつつあるいわきの状況を、同僚と取材しました。いわきは以前日本で最も面積が広い市だったほど広大な面積があります。市の中心部は原発から40キロ離れ、むしろ原発周辺からの避難者を受けいれる立場でした。しかし、北端のほんの一部(人口の1%程度)が30キロ圏内の「屋内退避区域」にかかったことで、報道で「いわき」の自治体名が連日広まりました。
物資輸送やガソリンの供給が止まる状況が発生し、いわきは、地震、津波、原発事故、風評被害、農産物の出荷停止と困難が重なりました。私たちは3月25日付で「福島県いわき市 『五重苦』に直面」と記事にしました。いわきなど浜通りの生活の様子は、現地以外ではほとんど知られていない時期でした。
あれから10年。
夏の暑さの残る2020年8月末、多くの人が薄磯海岸に遊びにきて、砂浜はにぎわっていました。
景色は、大きく変わりました。
卒業式当日に津波にあい、骨格だけが残った豊間中学校は、2015年に解体されました。
海岸沿いには防潮堤が整備されています。また「防災緑地」が新設され、その内側にかさ上げした道路と土地に新しい住宅が建ち、「多重防御」で防災力向上を目指しています。美しい海と住宅地が分断されているように感じますが、被災地全体でみられる現状です。
2020年5月、この海岸に「いわき震災伝承みらい館」がオープンしました。旧豊間中の3年1組の黒板が実物展示されていて、ぐっとくるものがあります。語り部の講話も定期的に行っているようです。
浜通りではいまだ帰還困難区域が残り、原発事故の爪痕を実感する場所は多くあります。しかし、津波の痕跡を見られるところは年々少なくなっています。
東日本大震災と原発事故の本質は「複合災害」。原発事故に加えて、津波被害を感じることができる薄磯海岸と「伝承みらい館」を、ぜひ訪れてほしいと思います。
■忘れられない「Jビレッジ」の光景■
もう一か所、忘れられない場所があります。
楢葉町と広野町にまたがる「Jビレッジ」とその周辺です。
国道6号「岩沢」交差点(広野町)。常磐自動車道広野インターを降りて国道6号にぶつかる地点で、今は、車の往来も多い主要交差点となっています。
震災で、交差点南側の上り車線が地震でうねり、ひび割れ、めちゃめちゃになり、完全に陥没。通行が不可能になっていました。隣接する運動公園「二つ沼総合公園」と高低差があり、地盤が弱かったのかもしれません。地震のすさまじさをはっきりと確認できるところでした。
そして2011年4月22日以降、福島第一原発から半径20キロ圏内が立ち入り禁止の「警戒区域」となります。ここが「半径20キロ」の南側境界となり、ここから北へは立ち入ることができなくなり、パトカーと警察官が常駐となりました。
その先の「Jビレッジ」に取材でたどり着いたときに見た光景は忘れません。
サッカー日本代表の合宿も行われた「聖地」は、「戦場」に変わっていました。防護服を着た人々が玄関前に列をなし、福島第一原発に向かうバスに乗り込みます。逆に、原発から作業を終えた人々が慌ただしく戻ってきます。原発への「前線基地」だと実感しました。
Jヴィレッジ施設の各部屋は、当然いっぱい。本来ゆったりと作られた通路上にも、両脇にガムテープなどで会社ごとに場所が区切られ、人々が荷物の脇で、小さく座って体を休めていました。通行スペースは、人一人分しかありませんでした。
日本代表が合宿を行った自慢のピッチは、巨大な駐車場に変わり、往来する車で芝生は荒らされ続けてしまいました。隣には、作業員が汚染された車両を次々と除染する場所があり、その写真は記事に掲載されました。さらには、作業員が宿泊する施設も次々と建てられていきました。
おそらく全国から集まった、事故収束に向けて取り組んだ関係者の皆様には、感謝をしたいと思います。
東京電力の現地復興本社は、初めJヴィレッジ内にありました。2016年、富岡町に移転し、さらに2020年10月、福島第一原発のある双葉町に再移転しました。Jヴィレッジは震災前のピッチ状態へ戻りました。そして新たな復興計画を進むべく、2019年4月、8年ぶりに営業を全面再開したのです。
当時、バスを待つ人々と物資でごった返した正面ロビーは、すっかりきれいになりました。
素晴らしいサッカーの芝生が望めるビューポイントとなっています。
合宿や大会も開かれ、若い人をはじめ多くの人が訪れています。
2011年当時の状況を感じられるところは、わずかです。
それより、コロナの逆境も克服して、宿泊客を増やすなどして運営を軌道に乗せていくことこそが、Jヴィレッジの目下の課題なのだと思います。
福島県の復興のシンボルとして、東京五輪の聖火リレースタート地点になっています。ただし、証言含め当時の状況を広く実感できる状態になるためのは、もう少し時間が先のことなのかもしれません。
<今回紹介した施設のリンクはこちら>