廃炉完了見通せず 「不安」が帰還の妨げに【復興を問う 帰還困難の地】(65)

 

 東京電力福島第一原発事故により、いわき市小川町に避難している富岡町小良ケ浜行政区副区長の関根弘明さん(64)は、東日本大震災と原発事故の発生から十年となったのを伝えるニュースを見聞きするたび、やるせない気持ちになる。「古里で暮らすことは、もうないんだろうな」

 小良ケ浜の自宅は福島第一原発から直線距離で約六キロしか離れていない。原発事故で全域が避難区域となっていた富岡町は二〇一七(平成二十九)年に総面積の約九割で避難指示が解除されたが、帰還困難区域の小良ケ浜は取り残されている。特定復興再生拠点区域(復興拠点)にも含まれず、国は原発事故から十年が過ぎた今も、除染や避難指示解除の見通しを示していない。

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 関根さんは小良ケ浜で生まれ育った。高校を卒業後に上京し、工事の監督を担う会社に入った。不慣れな土地で昼夜問わず働く環境になじめず、一年で帰郷した。福島第一、第二原発関連の協力企業への勤務を経て、重量物の運送を担う会社に再就職した。

 一九七九(昭和五十四)年に結婚し、一男一女を授かった。小良ケ浜に家を建て、看護師として働く妻と二人三脚で家計を支えた。仕事の合間には農作業に汗を流すなど、穏やかな暮らしに満足していた。子どもの大学卒業を機に会社を辞めて農業に力を入れようと考えていた矢先、原発事故が起きた。

 当時、転勤で青森県内にいた。十一時間かけて帰郷し、田村市船引町にある小学校に妻と身を寄せた。着る物や食べ物がなく、風呂にも入れない日々を過ごした。青森にある関根さんのアパートに一時身を寄せた後、妻は大玉村の仮設住宅に、関根さんは仕事のためにいわき市のホテルに寝泊まりした。「自宅に帰ることすらできない。原発事故で古里を奪われた」。悔しさ、怒り、悲しみが胸中で入り交じった。

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 政府と東電の廃炉工程表「中長期ロードマップ」は、廃炉完了までの期間を福島第一原発の「冷温停止状態」が達成された二〇一一年十二月から最長四十年としている。だが、溶融核燃料(デブリ)をどう取り出すか、具体的な計画は定まっていない。原発構内にある高線量の廃棄物の処分先も決まっていない。「燃料だけでなく、全てを取り除かなければ、廃炉が完了したとは言えない。国と東電は、その道筋を示す責任がある」。関根さんは廃炉完了が見通せない状況にいら立つ。

 二〇一四年、いわき市小川町の梨畑が広がる土地に一軒家を新築した。妻と猫二匹と暮らしている。古里に思いを寄せながらも、帰還するのは諦めた。「生きているうちに廃炉は完了しないだろう。地震や津波で再び原発事故が起きるのではないかと思うと、不安で帰れない」

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