富岡町<漂流する舟とヱビスたち>その⑤ 完結

 

オンラインホワイトボード「miro」を使った自身の書き込み

歴史上境界としてあった富岡町は、「岩城であり、相馬であり、またどちらでもない」ようなアンビバレントな土地柄であるように思えてきます。また岩城領の北端として長らくあったにも関わらず、現在まで残る民俗芸能の多くは、近代以降相馬地域から持ち込まれたものであるらしく、近代以前にあったであろうものは不明か、絶えてしまったりしているようです。それは度重なる抗争や領地分割による混乱があったからでしょうか。しかし、寺院に関しては、双葉郡で最も多く現在まで残っています。

夜ノ森のユートピア

富岡町の夜ノ森は、明治期までは開墾が進んでおらず荒れ野だったといいます。そこに相馬中村藩の郷士の家に生まれた(南相馬出身)実業家であり農政家の半谷清寿が、夜ノ森の荒れ野を買い取り、そこに新しい農業開発による理想の新しい村を構想し、南相馬市小高から移り住んだといいます。その原野に「朝日ヶ原」と命名し、自宅を「半谷農荘」と名付けました。そして300本に及ぶソメイヨシノの苗を植えていきました。それが後の夜ノ森の桜として今日有名になりました。夜ノ森にユートピアをつくり、この地から東北の農業による近代産業化をめざしたといいます。自身で「将来の東北」(1906年)などを著し、戊辰戦争による荒廃によって未だ復興を見ず、歴史上も中央の犠牲になってきた東北を嘆き、東北が自らの魂の復興を成し遂げ、この地から日本の未来を考えようとしました。そしてあれから約100年後、東日本大震災は起こり、ユートピアをめざした夜ノ森は、原発事故によって未だ帰ることはできず、荒れ野に戻りつつあります。しかしあの桜並木は今も毎年咲き誇ります。植えられた桜並木は、半谷清寿が当時夢見た新しい村と東北の復興の象徴であったのかもしれません。

真宗移民の寺

さて、そんな夜ノ森は近代以降は新興住宅地として、東京電力の社員やその家族、町外から来た人々なども多く住む地域だったといいます。さらには明治以降の開拓が進み、その子孫は、祖父や先祖が一から開拓した土地への強い誇りがあったといいます。地元の方に話を聞くと、地域の農業用水を公共物として町が管理しようとした時、「じいさんが一から開拓して作ったもんをなんでみんなで使って町のものにしなきゃいけないんだ」という人もあったといいます。自分たちで開拓し、その土地に代々暮らしてきたという意識が強かったようです。近代以降開拓者としてやってきた人々によって、夜ノ森は作られてきた地域と言えるかもしれません。しかし、それより以前にも富岡には移民による歴史がありました。それが、越中(富山県)や越後(新潟県)から流れてきた真宗移民による歴史です。真宗移民とは浄土真宗を信仰する移民のことです。真宗移民の大量受け入れで有名なのが相馬中村藩でした。飢饉や間引きによって人口が激減し、荒廃した領地を回復するため、大規模な移民受け入れを行ったのです。同時に北陸の真宗門徒は、教えにより間引きが厳禁であったため人口が増え続け、農地が足らなくなったことによる移民だったと言われています。富岡にはこのような真宗移民によって幕末に建てられた寺が2つあります。一つは夜ノ森にある高竜山西願寺、もう一つは町の中央に近い川口山光西寺です。

富岡町夜ノ森(帰還困難区域内)高竜山西願寺 本堂 

高竜山西願寺 山門 

西願寺は夜ノ森の帰還困難区域にあり、朽ちていく途上にあるように見えました。この寺は1857年に越中国(富山県)からきた信慶という僧侶によって開山し、真宗移民のために、自ら大工道具を手にし、そして真宗移民たちと共にこの地に本堂を建立したそうです。この地の真宗移民たちも当初は相馬を目指したそうですが、時期を失してよい土地を得ることができず、夜ノ森に来たといいます。戊辰戦争時は国境に近いこの寺が主戦場になってしまったそうです。

富岡町 川口山光西寺 本堂(本堂は昭和63年に鉄筋コンクリートで改築)

富岡町 川口山光西寺 入り口と鐘楼 

町の中央、日向という地にある光西寺は、1849年に越後国(新潟県)からきた利寛という僧侶が、当時の領主松平康爵によって新寺建立を認められ、この地に開山しました。境内には今でも立派な大銀杏が立っていますが、利寛出生の寺より持ち込んだ種子から育てたものだといいます。私は、光西寺が菩提寺であるという農家の方に話を聞きました。その方は自分は新潟から富岡にきた真宗移民の末裔であることを教えてくれました。以降この地で代々の米農家であるその方は、原発事故後、先祖が開いた土地を守り、除染作業によって土をさらわれた水田で、米作りを再開し、最新技術を導入した先進的なお米を作り続けています。

原発事故のあとで 

富岡町は、浜通りのいわば谷間として、あらゆるものや人々が流れ着き、そして集まる場所だったのではないかと、そんな想像ができるかもしれません。しかし、震災と原発事故の影響で富岡町はじめ双葉郡の多くの住民が避難を余儀なくされました。いわき市泉玉露応急仮設住宅(現在解体)には富岡町から避難した方々が暮らしていました。そして未だに多くの方が日本各地に避難しています。地震、津波、原発事故により、漂流する民となってしまったのです。津波により命を落とした方の魂も海を漂流し続けているかもしれません。境界であり、あらゆるものが流れ着き、それを受け留めてきた富岡町、そして被害にあった双葉郡地域には、未だ手つかずの<うつほ(空)>の大地が広がっています。そしてこの地域自体が大きな「うつろ舟」のように、今まさに漂流しつづけているように私には感じられます。

いわき市泉玉露応急仮設住宅  2020年11月 

原子力は多くのものをもたらしました。この地域にとって、それは外からもたらされた福の神だったのかもしれません。その福の神はこの地上に生み出されたもう一つの太陽だということができます。しかし震災は起こり、海の神(龍宮の王)は大津波をもたらし、原発は弾け、大地に穢れの罪をもたらしました。原子力は、強大な生のエネルギーであると同時に、穢れと死をもたらす負のエネルギーという光と闇の両犠牲をもっているのだと思います。原子力自体が二面性を持った荒ぶる神なのではないでしょうか。軍神である毘沙門天は、夷三郎(恵比寿様)のもう一つの姿でもあるそうです。夷(えびす)は東北地方にもかつて先住していたエミシの人々のことでもあります。毘沙門天と夷の勇壮で荒々しい姿とが重なったのでしょうか。一方の蛭子(えびす)は醜い不具の姿で生まれた水子でした。蛭子はヒルコで日子(ひるこ)ともいわれます。天照大神(アマテラス)が太陽の女神なら、その血縁でありながら、神話の表舞台から阻害された蛭子の存在は、穢れを負った裏の太陽なのかもしれません。そしてまた一説には血縁の荒神である素戔嗚尊(スサノオ)ともとても似た性質を持っているとされます。世界中に見られる洪水と箱船伝説の一端に、葦船に乗った蛭子が位置づけられることもあります。海洋を彷徨った蛭子=ヱビスは一体何者として回帰したのでしょうか。流れ着き、居着いた先で、人々に生の活気をもたらす福の神=英雄としてか、それとも災いをもたらす荒ぶる厄病神=怪物としてなのか。私たちは自然と文明の関係の中で、そんな境界に立ち続けてきたのかもしれません。富岡町、そして浜通りを旅する内に見えてきたのは、そんな境界を漂流するヱビスたちの姿でした。

終わり

キヨスヨネスク地元記者

投稿者プロフィール

1992年生まれ。俳優。劇ユニット「humunus」結成。
ソロで創作活動も行う。声と身体の関係から、風景とそれらを構成する"空間の肌理"を
いかに「うつし」「かたどる」かをテーマに、地域の歴史や風景の変遷、
人の営みのリサーチを通して創作活動をしている。
大学在学中から折に触れて東北のリサーチをはじめ、
2020年より富岡町を中心に浜通りのリサーチを本格的に開始。
富岡に活動拠点として「POTALA-亜窟」を開設。
現在東京と富岡の2つの拠点を行き来しながら活動している。

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