私の仕事と海外(1)、(2)

 

私の仕事と海外(1):10月下旬

私はこれまで約30カ国で仕事をしてきました。小さい頃から世界を意識したかというと、最も記憶に残っているのが毎週日曜日の朝に放送されていた“兼高かおる世界の旅”や“金曜夜放送の”野生の王国“を思い出します。そして家で留守番をしているときは、図鑑や世界地図をよく見ていました。小さい頃から海外への興味や関心は少しずつ大きくなっていきました。

海外を特に意識したのは、故郷を離れ大学3年生の就職活動の時でした。将来どのような仕事をしてどのような生き方をすべきかを深く考える時期がありました。そのときに、高校からの親友と居酒屋で将来について語り合っているときに、一つの目標を設定しました。それは、35歳まで外の世界を見て、36歳から故郷の力になることでした。なぜ、35歳に拘ったかはそのとき定かでありませんが、今考えてみると社会人としての知識や視野がある程度成長していること、体力も十分にあることから故郷に戻っても比較的早く順応することも考えてのことだったかもしれません。35歳を設定したときに、“外の世界”ということを考えました。故郷に戻ってからなかなかできないことは何かを熟考しました。そこで意識したのが海外で多くの経験と広い視野を身につけることでした。父は富岡町で測量設計会社を創業していましたので、その分野を中心に海外の経験を積める企業を探すことにしました。四季報を見ていて目に止まったのが、日本工営株式会社でした。日本の建設コンサルタントの最大手かつ世界150カ国以上海外の実績を有する会社です。入社は難しいとも思いながら、“当たって砕けろ”の気持ちで入社試験を受けました。幾度の筆記試験や面接を経て、役員面接試験まで漕ぎ着けました。役員面接では、様々な質問を受けましたが、「是非、海外で経験を積みたい」と話したことは今でも記憶に残っています。数日後、内定通知を受け取ったときは飛び跳ねて喜びました。

入社後は、国内の空港関係の部署に配属となり、福島空港始め、羽田空港、成田空港、大島空港などの設計を経験することができました。故郷である福島空港の計画に関われたことは本当に嬉しかったです。入社2年目になり、海外部署で若手技術者を補充したいとの話が来ました。上司からは「遠藤君は海外に興味があったと思うが、異動する気持ちはあるか?」との問いかけに、「是非やらせてください」と即答しました。念願叶い、2年目の8月に国内事業部から海外事業部に異動しました。配属先は海外の道路、橋梁、港湾、空港などの計画・設計・管理を担う交通技術部でした。異動後、直ぐにOJTとして海外出張の話がありました。行き先はネパールとパキスタンです。初めての発展途上国での経験です。海外異動1ヶ月後の9月に成田空港からバンコク経由でカトマンズに出張しました。初めての1人での空の移動で機内では終始ドキドキです。しかも、英語も全く自信が無く、機内で外国人CAから質問されても殆ど分からず、不安な気持ちが増したまま、カトマンズの空港に到着しました。最低限かつ老朽化した空港設備、荷物を取り上げ出口へ向かうと溢れるほどの人、人、人・・・・。そして無数の呼び掛けと呼び込み。初めて見る光景に「これが途上国か」という気持ちが込み上げてきました。同時に意識のスイッチを変えなければならいと緊張感を抱きました。到着3日間はカトマンズ市内の事務所で橋梁の設計に関わり、4日目から現地調査でした。4日目早朝に市内のホテルを発ち、断崖絶壁沿いのいろは坂を延々移動し、未舗装のため常時突き上げるような振動の中、助手席に乗っているだけでも疲労感と腰への痛みが増していきます。その後、途中の集落で何度か休憩し、出発から約10時間経過し目的地に到着しました。到着した場所は、家一軒無い野原です。現場作業は3週間です。どのような生活をすればと問いかけると、「この野原で生活します」との回答。「今からテントを張ります。そして食堂やトイレもテントです」と。風呂や洗濯はどこでの問いに、「ずっと先に民家が見えますね。あそこの井戸を使用します。」との回答。学生時代はアウトドアが好きで週末となればキャンプに出かけていましたが、海外でかつこれまで経験したいとのない過酷な屋外での生活です。ただ、生活だけでなく、日中は仕事が待っています。海外での仕事とはこういうことなのかと言い聞かせ、スタートしました。その仕事は、インドとカトマンズを結ぶ第2の幹線道計画です。高低差1300m、延長160kmの道路で、ネパール国として生命線ともなる重要な道路計画でした。私が関わった1995年当時は基本設計ステージで、3週間の現場滞在中は測量チームのサポートを行いました。日中は険しい地形を移動しながら測定を行いました。私の他日本人は2名、現地スタッフが3名の計6名のチームです。現地スタッフの中には私とちょうど同じ年齢のネパール政府(日本で言う国土交通省)の技術者も含まれました。彼とは仕事のことプライベートのことを話し合いました。彼は流暢な英語で話しかけてきますが、私は辞書を持ちながらの会話です。言葉を交わして行くにつれて、互いの給与の話になりました。先に彼から給与の話をしました。支給額は日本円換算で4,000円程度。こんなに英語が話せてかつ土木技術も持っていて、聞いた金額に驚きを隠せませんでした。その額を聞いた後、私は正直に自分自身の給与のことを話すことができませんでした。それと同時に、このような両国での給与格差があることを感じ、途上国で日々の生活に困っている多くの人々のために、語学と技術を磨かなければと強く決意したことを思い出します。テント生活は不便を感じること多々ありましたが、近所の子供達とのサッカーや大人達との飲み会と腕相撲大会など、時間が経過するにつれて多くの人が仲間になっていく仮定を感じることができました。3週間の現場での作業を終え、カトマンズに戻り、ネパール料理、寺院巡り、博物館、滝見学、エベレストフライトなど多くのネパール文化にも触れることができました。一方で、ホテルでは室内での現金盗難に遭うアクシデントも経験しました。約1ヶ月のネパール滞在を終え、バンコク経由でパキスタン国ペシャワールへの移動です。

私の仕事と海外(2)に続きます。

私の仕事と海外(2):11月上旬。

1995年10月、タイ国バンコクからパキスタン国ペシャワールに向かう途中、突然に機内で急病人。途中のインドに緊急着陸。インドで数時間待たされ、機内は、非常に暑く、染みついたカレーの臭い、はえも飛び交う状態です。それから離陸し、予定よりも約10時間遅れてのパキスタン入国。空港に到着して感じたことは、酒類が全く売っていない、女性がニカブを被って顔が見えない、人が溢れていることなど。ネパールとはまた違う文化を感じました。ペシャワールはアフガニスタン国境に接する人口約200万人の大都市です。パキスタンはイスラム諸国でも非常に厳格でお酒を飲むこともできず、女性の顔も見ることができません。パキスタンには約3ヶ月滞在しましたが、酒は大きなホテルのレストランの奥の奥の部屋で急須に入ったビールを1度飲んだのみ。女性の顔を見たのは事務所スタッフの姉妹2名のみです。ペシャワールでは事務所と宿舎兼用の一軒家で日本人所長2名と生活しながらの仕事です。業務はペシャワール北部の北西辺境州の橋梁の施工管理です。橋梁の工事が約10箇所で同時並行に進められていました。各現場は数百キロ離れていて、標高3000mを超える峠を超えて行く場所もありました。道路は殆どが未舗装で、現場を巡回する際は、到着後に著しい疲労感がありました。現場に行く途中、世界で2番目に高いK2を横に見上げました。とにかく、遠くに見える山々の景色は絶景で、日本では経験できない雄大さを感じました。パキスタンで感じたことは人々が非常に親切で、明るい笑顔が印象的でした。大きな荷物を運ぶロバ、昼食で立ち寄るレストランは全てのメニューがカリー。沢山のナンと複数のカリーを食べても100円でお釣りが来る。当初パキスタンのイメージはあまり良いものがなかったが、現地を訪れると大きく見方が変わりました、一方で、早朝に宿舎周辺では銃声が頻繁に聞こえ、町中では交差点や建物での爆弾テロなども発生し、暗い現実も目の当たりにしました。ペシャワールでの約3ヶ月は、夕食後は特に英語の勉強に励みました。お酒が飲めないので、夜の時間を有効に使えること、体も締まっていくのを感じました。ところ変われば習慣も変わります。約4ヶ月の出張中、日本の職場に現地から数枚絵はがき送りました。いずれも貴重な経験を綴り、出張させてくれた感謝の文面です。4ヶ月の出張を終え、帰国の途につきました。

帰国後の出社初日、上司や先輩から4ヶ月間のOJTについて面談がありました。出張を振り返り、前向きな経験を話していると、突然上司から「実は、海外の数ある案件でも1,2を争う厳しい現場を経験してもらった。前向きな考えを聞いて、遠藤君はどこの現場でも行けるね。」と。年明けの最初の出張はアフリカのザンビア国。その後、ウガンダ国、ケニア国、ボツワナ国などアフリカ中心に。アフリカ入国前には必ず黄熱病、狂犬病などの予防接種。過酷な出張かと思えば、最初のネパール、パキスタンの事が自分自身の基準となってか、生活や仕事の面で支障をあまり感じませんでした。最初の体験が非常に大切であることを肌で感じました。アフリカ大陸は非常に広い。どこまでも続く地平線、そして多種多様な野生生物。ボツワナの橋梁建設エリアで川上をボートに乗って状況を確認していると、一頭の親象を目撃。その後、子象が親象の後ろを付いて川を横切り、子象の姿は徐々に水面下に。ただ、水面から鼻だけ出ていて息継ぎしている光景に癒やされました。そのような光景をのんびり見ていたら、突然数百頭の象の群れが横切っていく。あまりの迫力に呆然となり、野生の力強さを目の当たりにしました。アフリカで沢山の経験を積み、その後、港や海岸の海に関わる部署に移り、東南アジア、南アジア、大洋州、中米などで経験を積むことになりました。

港湾の計画・設計でも貴重な経験を積みましたが、最も印象に残っているのは海岸保全事業です。途上国の島国では、沿岸域での開発、地球温暖化による異常気象、海面上昇、沿岸域での管理不足などが原因で海岸侵食が進み、特に貧困層が沿岸域で居住し、津波や高潮で甚大な被害が生じるなど、様々な問題が起こっています。私が最も長く生活しながら仕事を行ったのはインドネシア国バリ島です。バリ島というとリゾートのイメージが強いですが、確かに1970年代以降、急激なリゾート開発を行ってきた島です。その影響もあって、至る所で海岸侵食が発生し、リゾートビーチが失われています。私が業務として関わったのは、バリ島でもリゾートビーチの老舗でもあるサヌール海岸、ヌサ・ドゥア海岸、クタ海岸、タナロットの4海岸です。バリ島には独身時代と結婚生活も含めて約4年半滞在しました。いくつも思いで深い出来事がありましたが、その中でも特に印象に残る2つのエピソードを紹介します。一つ目は、サヌール海岸での住民合意形成です。一つの漁民グループが海岸事業に反対し、2年以上工事が中断していました。それまで何度も説明や説得を試みましたが、いずれも強い反対にあい、暗礁に乗り上げていました。私は何度も問題の海岸を歩き、様々な視点で海岸の特性を評価しました。反対グループと幾度も話し合いました。一緒に海岸を歩き、事業の必要性を何度も話しました。その誠意が理解されるようになり、漁民グループのボスを紹介してもらいました。ボスの自宅を訪れても門前払い。翌日も同じ、それを5回ほど繰り返すと、根負けしたかボスの奥さんが家の中に入れてくれました。ボスと会い英語で説明しましたが、英語では理解できず、依然として反対。練り直して今度は紙芝居風に絵で表現して事業の必要性を英語と多少のインドネシア語で説明しました。そのようなことを4回ほど行ったとき、やっとボスが理解を示し、私に握手を求めました。翌日、工事がストップしていた海岸を訪れると、漁民グループ、周辺住民が笑顔で迎え入れて、一緒に海岸を歩き、事業への全面的な協力を取り付けることができました。事業終了後、彼らは精力的に海岸のゴミ拾いなど行うようになり、多くの方が私に声を掛けてくれるようになりました。そして、テレマカシ(ありがとう)と何度も言っていただきました。

2つ目はクタ海岸です。クタ海岸での事業はサヌールとは比べものにならない数の反対がありました。ここでは3年以上事業がストップし、事業の取り止めもインドネシア政府内で協議されるようにもなりました。私はプロジェクトスタッフと共に、反対する複数のグループに会って理由を聞いて回りました。幾度と足を運んで反対理由で共通することに気づきました。クタ海岸では以前サンゴ礁上に滑走路を建設し、その影響で砂の動きやサンゴが減少して海岸侵食は進んでしまったこと。事業説明では、海岸上に構造物を建設して砂浜を再生するコンセプトでしたが、住民は過去の経験からサンゴ礁上に構造物を作ることにアレルギーを感じていたのです。それからコンセプトを180度変えてみました。南の国の白い砂浜はサンゴや貝殻などの破片から作り出される。であれば、少なくなったサンゴを再生し、砂を増やすこともコンセプトに入れ込むこと。西洋医学的なコンセプトだけでなく、東洋医学的なコンセプトも含めること。それから地元の漁師や観光業の人々を巻き込んで、サンゴ礁上でサンゴ移植の試験を始めました。ゼロからサンゴを再生することを2年ほど共に行っていく過程で、住民意識が徐々に変わっていきました。それから反対する多くのステークホルダーが理解を示し、事業再開に漕ぎ着けることができたのです。その後、本件は日本土木学会賞およびアジア土木学会賞を受賞するようなプロジェクトになりました。

日本工営(株)での海外での経験は私の人生で大きな財産となりました。海外出張中は、20歳の時に定めたいずれ故郷のためにということを常に意識し、出張先の国からは客観的かつ俯瞰的に双葉地域を見て、強みと弱みを評価していたように思います。これまで世界で経験してきたことを、故郷・双葉地域の未来のために活かしていきたいと考えております。そして、これまでそしてこれから福島で経験することを、途上国の課題解決にも活かしていければと思います。そして気づいたことは、発展途上国の国レベルの課題と日本の地方の課題は類似することが多いことに。そのため、地方から海外を経験することは互いを良いレベルで融通することができるように思います。

2007年に帰郷してから現在に至り、(株)ふたばではセーシャル、モーリシャス、マダガスカル、インドネシア、フィリピン、ペルーで海外の事業に関わってきました。今後もフィールドは、故郷ふたばから世界までをモットーに胸に。

次号以降は、以下のテーマを予定しています。

3. 震災後から事業再開まで(11月下旬提出予定)

4. 事業再開から故郷富岡への帰還(12月上旬提出予定)

5. 故郷でのワインづくりの思い(12月下旬提出予定)

6. 故郷の未来予想図(1月中旬提出予定)

遠藤秀文地元記者

投稿者プロフィール

遠藤秀文(えんどうしゅぶん)
所属:株式会社ふたば代表取締役社長(建設コンサルタント)、一般社団法人とみおかワインドメーヌ代表理事(富岡でのワインづくりにチャレンジ)
出身地:富岡町生まれ。高校卒業後に故郷を離れ大学進学し、その後日本工営株式会社入社。日本工営株式会社在職中(1994~2007)はODA案件の開発調査に関わり発展途上国を中心に20数カ国で業務。2007年退職し、現所属に至る。震災後は富岡町の本社機能を郡山市に移し事業再開。2017年8月に本社機能を富岡町に戻し、郡山は支社となる。2016年4月より、富岡町民有志を中心に富岡町内でワイン用葡萄を試験栽培開始。2020年2月に初めてワインが完成。
コロナで変わったこと/変わらなかったこと:
コロナで変わったこと:人材確保が大変です。新卒の合同説明会など全てキャンセルで若手社員および中途社員の確保が困難。また、海外出張ができず、ペルー国マチュピチュ遺跡の調査が中断。
コロナで変わらなかったこと:毎朝のルーティーン。

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