富岡町<漂流する舟とヱビスたち>その②

 

富岡町中央商店街

恵比寿と習合の神

富岡町では大正12年から商売繁盛と五穀豊穣を願い、町内にある事代主神社の祭礼に合わせて、毎年11月に「えびす講市」が中央商店街通りで開催されてきました。元は十月二十日に恵比寿様と大黒様に祝いの膳を供えていたことにはじまるそうです。よって二十日市とも呼ばれていたといいます。原発事故後7年間は中止されていましたが、2018年より再開されたようです。震災前まで毎年秋の風物詩として多くの人で埋め尽くされるほどのにぎわいを見せていたといいます。

なぜ事代主神社の祭礼に合わせていたかというと、事代主神とは古事記における大国主命(大黒様)の子とされ、同時に恵比寿大神と同一視されている神だからです。国譲りの神話では事代主神が釣り(漁)をしている様子があることから、海の神である恵比寿神と結びつき、後に恵比寿様が釣り竿を持っている姿で表されるようになったようです。よって事代主神=恵比寿神=大漁の神として、事代主神社からえびす講市がはじまるのです。事代主神社は、町の中央にある三社の杜にあります。

三社の杜は、竹駒稲荷神社、大田農神社・八幡神社、事代主神社が一カ所に集まっています。

事代主神社に関しては元々は富岡公園内にあったものを移設したようです。

三社の杜

三社の杜にある事代主神社

三社の杜 事代主神社 由緒 

三社の杜からの眺め。「さくらモール」が見える。

事代主神が恵比寿神と習合したことに触れましたが、恵比寿様はほかにも多くの神様と同一視されてきました。

その一つが蛭子(ひるこ)神です。古事記によると蛭子(水蛭子と呼ばれる)は、始祖神であるイザナギとイザナミの最初の子とされています。しかし生まれて3年たっても立つことができず、どうやら不具の子であったように描かれています。そのためにイザナギとイザナミは我が子を葦船(葦藁でつくる船)に入れ、海に流してしまいます。水子というのはこの水蛭子から転じたという説もあります。つまり水子である蛭子は葦藁の船の中で海上を漂流することになったのです。後世になって、流された蛭子が漂着し、その地で神となった伝説は日本各地にあります。漂流した蛭子は海の神となったのです。ここから蛭子=えびす(恵比寿神)と同一視されることになっていきました。

恵比寿神は海の神、豊漁の神として、事代主神、蛭子神と同一視しされてきたのです。恵比寿様と呼ばれているこの神は七福神の一柱でもあります。室町期より庶民信仰の中で、豊作豊漁をもたらす福の神として、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人に並ぶ神様として信仰されてきました。しかし、この七柱の中で、日本の神様は、実は恵比寿様だけです。他の神様というと、インドのヒンドゥー教の神、中国の仏教の神(僧)、道教の神様です。恵比寿様以外は、インドや中国の神様なのです。

「えびす」と「蝦夷」

実は「えびす」は「蝦夷(えぞ・えみし」が音変化したものだと言われています。

蝦夷の意味は、中央から遠くはなれた未開の地の者、荒々しい風体、そして異民族のことをさす蔑称として古来より使われてきた言葉です。つまり<天皇にまつろわぬ民>、化外の人々として、律令制を導入したあたりから東北に住む人々にも多く用いられてきました。<みちのく>という言葉も、陸(みち)の奥、として異国異民族の地として使われ、「蝦夷地」などとも呼ばれてきました。「えびす」とは言ってしまえば「よそ者」ということです。東北地方や、こと富岡町含む浜通りにも、この「蝦夷(えみし→えびす)」と呼ばれていた人々が多く暮らしていました。征夷大将軍である坂上田村麻呂や鎮守府将軍である源頼義やその子八幡太郎義家など、東北の蝦夷を征伐するため幾度も派遣されています。征夷大将軍とは、「夷(えみし)を征伐する」という意味があります。この富岡町でも度々激しい戦が行われていたと言います。そして特に源頼義・義家(八幡太郎)と蝦夷の戦いの証として、浜通りには鎌倉の鶴岡八幡宮から五里ごとに立てたという八幡神社(五里八幡)が点在しています。しかし富岡町内にある八幡神社は原発事故後、管理する人もおらず、荒れ放題の状態が続いています。

富岡町 太田八幡神社       

太田八幡神社 社殿            

 富岡町 正八幡神社 

「えびす」が蝦夷の人々を表す言葉であると同時に、よそ者や外側の世界の住人を表す言葉として使われてきました。そして「恵比寿神」自体も、外からやってくるもの、海の向こうから到来し、福をもたらす、客神や漂着神、来訪神として信仰されてきたのです。かたや他所者や異民族の蔑称として、一方で外からやってきて福をもたらすものとして、「えびす」には多様なニュアンスが含まれているように思います。

流れ着くもの=えびすたち

海の向こうから漂着するものを「えびす」と呼んで信仰する習慣が古くから日本にはありました。これらを「寄り神信仰」とも言ったりします。代表的なものではクジラがあります。浜に打ち上げられたり、浅瀬に迷い込んだクジラは大変な恵みとして、神格化されてきました。クジラを恵比寿として祀る神社は日本各地にあります。いわき市でもかつて捕鯨が行われていたことがわかっています。富岡町を含む双葉郡沿岸地域でもクジラの化石が発見されています。この地域の海でもかつてはクジラの姿がよく見られたことでしょう。

そしてクジラの他にも、渚にうち上がった水死体をえびすと呼ぶ習慣がありました。今でこそとても信じられないことですが、水死体があがると大漁の兆しとして、これもまた「えびす」として信仰されたことも、かつての日本の沿岸地域ではあったようなのです。

富岡町には「えびす講市」があります。そしてそれは海に面した漁港の町として大漁や五穀豊穣、商売繁盛を願ってのお祭りです。そしてもっとも、事代主神社があることや、えびす信仰も、この町の歴史において、あらゆるものが漂着し、流れ着く場所の性格と共に、それらを神として信仰してきた所以なのかもしれません。そしてもう一つ、富岡町には事代主神と異名同神とされる美穂須須美命を祀る諏訪神社があり、この社では浜通りでよく見られる「浜下り」の神事があります。詳しくは次回で紹介しようと思います。

<その③>へとつづく   

キヨスヨネスク地元記者

投稿者プロフィール

1992年生まれ。俳優。劇ユニット「humunus」結成。
ソロで創作活動も行う。声と身体の関係から、風景とそれらを構成する"空間の肌理"を
いかに「うつし」「かたどる」かをテーマに、地域の歴史や風景の変遷、
人の営みのリサーチを通して創作活動をしている。
大学在学中から折に触れて東北のリサーチをはじめ、
2020年より富岡町を中心に浜通りのリサーチを本格的に開始。
富岡に活動拠点として「POTALA-亜窟」を開設。
現在東京と富岡の2つの拠点を行き来しながら活動している。

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