とみおかアーカイブ・ミュージアム

 

富岡町で生まれ育った三瓶さんが「考古学」と出会ったのは高校の時である。古墳の調査に初めて触れ、発掘の面白さに嵌まり込み、そのまま迷いなく考古学を学べる大学へと進学した。夢中になって考古の世界を読み解きながら、大学生活の4年間はあっという間に過ぎ、大学卒業のタイミングで飛び込んできたのが、富岡町の施設で、文化交流センター「学びの森」という富岡町の複合文化施設の建設とその施設内に歴史民俗資料館が併設されるという情報だった。ここだ!と三瓶さんは思った。そして町役場の職員となり、いくつかの部署を経験した後、三瓶さんは学芸員として文化交流センター「学びの森」の中にある歴史民俗資料館に配属されることとなったのである。

 

2011年3月11日、大地震と津波がこの地域を襲った。町役場では災害対策本部が富岡町文化交流センター「学びの森」に置かれることが決まった。施設に勤務していた三瓶さんは、災害対策本部の電源確保など、本部の環境を整えながら、町内の各避難所の人数などの把握や地区ごとの被災状況に忙しなく行き来する職員に交じり、ホワイトボードに入ってくる状況をメモしたりしながら走り回っていた。大きな机には模造紙がいくつも広げられた。次々に入ってくる被害についてどう動くか何をすべきか、誰も経験したことのない事態への対応がはじまったのだった。

 

翌12日の明け方に”全町避難”が決定。町内のバスも使っての町民全員の避難が開始された。指示を受けて三瓶さんはバスのハンドルを握った。通常は30分で着く川内村へ続く道は車で溢れ、3時間4時間と時間が過ぎてゆく。その道中では原発の状況を伝えるラジオが流れていた。川内村への避難。その数日後には郡山市のビックパレットふくしまへ避難。そこから更に富岡町と友好都市である埼玉県杉戸町への避難。町の職員はみな通常業務を離れ、町職員として避難所や仮設住宅などでの町民のサポートにあたった。

 

原発事故の後、誰もいなくなってしまった町。その富岡町のことを思った時、三瓶さんの頭に富岡町の歴史資料のことが頭を掠めた。「この先のことを考えたら、それらの資料をちゃんと保護しなければならないのではないか。それらの資料がもしかしたら、バラバラになってしまった町の人たちの拠り所にもなるのではないか?」

 

やがて浜通りをはじめ、福島県内外からも「文化財レスキュー」の声が上がり始め、震災から約1年後、福島県被災文化財等救援本部が立ち上がった。警戒区域からの資料の搬出に際しては、放射性物質の問題がつきまとう。検討の結果、搬出基準は当時の一時帰宅の持ち出し基準の10分の1に決められ、富岡町歴史民俗資料館の資料の搬出が約2年かけて実施されることとなった。その後、その動きは、家屋解体となる民家の持ち主からの相談も受けながらの民間所蔵の文化財レスキューにも繋がっていった。

 

そんなある日、震災前からお世話になっていた県立博物館の学芸員の方から「震災に関する資料の保全を進めるにあたって富岡町歴史民俗資料館も一緒に作業をしないか」という提案を受けた。それは、今は現在進行形のものでも、時間が経てばこれも、町の歴史の一部として貴重な歴史資料となることに気付かされた瞬間でもあった。

 

2014年6月には富岡町歴史・文化等保存プロジェクトチームが発足した。富岡町の十数名の職員が参加し、福島大学等の協力を得ながら地域資料の保全の業務が始まり、合わせて震災遺産の保全に関わる業務も行うようになっていったのである。

 

2016年、それらの資料を管理・活用する施設を富岡町内に整備する計画が持ち上がった。震災後のことのみを伝える施設ではなく、太古から続くこの地域の営み・歴史の中の一部として震災・原発事故のことを位置付ける。連綿と続いてきた文化や民俗、歴史の中にあった自分たちの暮らしを見つめる中で災害のことも考えることは、一度自分が暮らしてきた土地を避難によって離れてしまった町の人にとっては、自分自身を再確認できるものでもあるだろう。保全された資料を通じてこの地域の特徴が震災・原発事故によってどう変化したのかを見てもらうこともできるだろう。そんな想いを反映して作られた施設は、「とみおかアーカイブ・ミュージアム」と名付けられ、2021年7月11日にオープンした。

 

展示室は地層やこの地域に生きる昆虫をはじめとした自然の姿からはじまり、縄文時代にも東北と関東の両方が交差する場所だったこと、富岡町内の歴史や文化、この地域の平安時代、江戸時代、昭和、と時代ごとに、人々の暮らしが、この場所にあったことが、静かに、あたたかい視点で語られていく。

 

館内を歩くその突き当たりに、昭和の時代、この地域へ原子力発電所が誘致されたことを紹介するパネルが置かれていた。各家庭の冷蔵庫などに貼られていたというポスターには原発の炉のイラストが描かれ、5重の守りで安全、という言葉がポップな字体で置かれていた。地域と身近になっていた原発。

 

そこから展示は2011年3月11日へと移行し、あの時三瓶さんが事態を書き留めていたホワイトボードや、生々しくその当時の気配が残るテーブル、災害対策本部に詰める職員のマネキンの姿が現れる。震災遺産として残された、当時使われたテーブルやホワイトボードがそのまま展示され、当時実際に使われていたものたちが発する気配に圧倒される。ものを遺すことの意味。背後に並ぶ縄文から昭和までの生活の名残りが背中に張り付いてくる。刻一刻と変化していった災害のありようが、空間の残り半分で展開されてゆく。被災状況がどうであったか、人々はどうしたのか。プロジェクションマッピングの手法や、証言記録映像など、さまざまな手法で語られる災害の歴史。

 

その最後のコーナーは「それぞれにとっての“複合災害”」というタイトルが付けられ、今も続く避難のことと合わせ、町に残さざるを得なかった動物たちのこと、子どもが避難先のホテルでメモ用紙に書きつけた手記などが、並べられている。手記には、パン1枚とサラミを食べて車の中で過ごしたこと、避難のこと、東京電力福島第一原発が爆発したことを知って犬や猫の心配をしたことなどが書かれ、ホテルの名前が書かれた用紙も生々しく、当時の空気感を伝えてくれた。

 

「一つの町の歴史や営みがあり、実際にその町が、災害が起きたことでどう変化したか。歴史の一部として東日本大震災と原発事故を扱うことで、より身近な自分のこととして、捉えてもらえるのではないか」

 

このとみおかアーカイブ・ミュージアムは、富岡町のことを語っているようでいて、どこにでもある「町」の姿を、描いているのである。縄文時代から続く人類の営みを思えば、今もまた瞬間でしかなく、そしてこの先も道は続いていくのだろう。裏にある収蔵室を見れるエリアの2階へと登っていくと、展示空間全体を見下ろせる場所に出る。「富岡は負けん!」という力強い垂れ幕が目に飛び込んでくる。震災直後から、東京電力福島第一原子力発電所へと続く国道6号の歩道橋に架けられ、多くの人々の心に刻み込まれた言葉だ。ここに生きた人々。過去に生きた人々。この地域を形作る地層。動物。虫。桜。海。暮らしの中に溶け込んでいたもの。普遍的な到達点に立ち見えてくる町の姿は、はるか昔から織りなすように続いてきた地域そのものの豊かさでもあった。

 

とみおかアーカイブ・ミュージアム

TEL:0240-25-8644

住所:福島県双葉郡富岡町大字本岡字王塚760-1

開館時間:9:00~17:00(最終入館16:30)

休館日:月曜日・年末年始

入館料:無料

公式Facebook:https://www.facebook.com/TheHistoricalArchiveMuseumOfTomioka/

 

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