村のくらし 其の3
長年、付かず離れずの状態で俳句をやっている。2018年に、あのパワフルな今をときめく夏井いつきさんの俳句講演会に行った。そして昨年末、南相馬市にやって来た彼女の句会ライブに参加して再度魅了されて来た。参加者全員が持ち時間5分間で一句作らされた。披露された句の中には、「5分なんかじゃ出来る訳ない」と言う主旨の句もあって、笑ってしまった。何しろ俳句人口の裾野を広げようというそのライブは全く堅苦しくなく、テレビ番組で観ているそのままだった。服装は洋服姿で、自前の着物は持ち合わせていないそうだ。句会ライブは全国を回るので、着物は移動に適さないとのこと。間違いなくいつき組の裾野組員は増殖中。川内の俳句仲間と楽しい時間を過ごして来た。
そもそも私が俳句を始めたきっかけは父親の影響です。小学校の教員時代の父は、児童に俳句指導をしていて、その時の句碑が第三小学校の校庭の隅に建てられていましたが、廃校となった今はどうなっているのか・・。
父は在職中から村内の俳句会に入会していて、会長となってからは更に盛んに俳句活動をしていました。知らぬ間に母も始めていました。栄養学校を卒業して東京から実家に戻って来た私も、理系より文系が好きで、いつの間にか親と一緒に俳句を始めていた次第。と言っても同年代は誰もいなかったため、会員の年齢構成は私の親の世代が20人ほどでその中に若造の私一人。居心地の良い会でした。句会は月1回のペースで開かれ、広域的に俳句会は隆盛を誇っていたのではないかと思います。あちこちで開かれる俳句大会に参加しては、同好の士と交流を深めていました。 句会では時には辛口批評なども出ますが、大方は和気あいあいという雰囲気に保たれていました。皆それなりに気合を入れて良い句を作ろうとしていたのではないかと思います。
良い句とはどういう句か。万人受けするものが良いのか。基本、俳句は一人称なので「私」が中心。言ってしまえば「私」が良しとする句は良い句に違いなく、発表した句は受け手の解釈で千差万別になり、それはそれで否定するべきものでもない。が、そこに表現力の差は現前としてあるので、テレビのあの番組で夏井さんがよく言う言葉は、
「なんだい、あんた。そういう事を言いたかったのかい?それじゃあ、そう書けばいいんだよ!」
ここが表現力の差です。言いたいことが伝わらないようでは話にならない。けれど、対極には他人に分かってもらえなくても良い、自分だけがこの句を作った時の背景、心持を覚えている、外からの評価を必要としない、というような自己満足の句もあり、それはそれで良い。自分一人でも楽しめる。皆と一緒にも楽しめる。
俳句が盛んだったことの名残のように、村内には芭蕉の句碑が2基建てられている。俳句が全国的に盛んだった頃には、何処の地域でも俳聖芭蕉の句碑が建てられたらしい^_^;
しばらくは花の上なる月夜かな 芭蕉
(江戸末期、上川内の太子堂の境内)
月代や膝に手をおく宵の中 芭蕉
(上川内洞秀山泰亨院長福寺の境内)
さらに長福寺の坐禅堂には句襖というものがある。住職に尋ねたところ、昭和61年(1986年)3月16日に完成披露祝賀会を催しているそうで、主に相双地域の人達の俳句が襖に毛筆でしたためられている。知る人ぞ知る村の文化財の一つだと思う。俳句に興味のある方には是非立ち寄ってじっくり見て欲しい場所です。
世に淡く生きてパン食ふ寒さかな 卓二
いつまでも私の心の中にある父の句です。年齢的に最後の兵隊だった父が第二次世界大戦後、捕虜となってシベリアに抑留されていたときを詠んだ俳句です。
日本にいる親兄弟にすれば、戦争に行ったきり生きているのか死んでしまったのかも分からない状況の中で、異郷の地に捕らわれの身として、若干二十歳の人間が一切れの黒パンで明日をも知れない命を繋いでいる孤独と絶望。背景を知ると、このたった17音の中の凄まじさが見えてくる。
その父も亡くなって7年の時が流れ、時代は平成から令和に。令和2年の去年は丸々1年間新型コロナウィルスに振り回され、みんなが生活様式を変えざるを得なくなった。
コロナ感染者ゼロの川内に住んでいるものの、私もコロナに負けないように、日頃の生活を変えるべく、体力維持と筋力増強を目指して、年明けから散歩を始めた。
平地ばかりでは、身体への負荷が期待出来ないので、身近にある麓山神社に登ってみる。小さな山で、傾斜は少々きついが、歩数で測ってみたら距離は約200mくらいだ。鳥居からは10分程で神社が建っている山頂に着いてしまう。調べてみたらこの神社は室町時代に造営されたらしい。神社の歴史の長さに驚いてしまった。
実は村を貫いている国道399号線のバイパスが出来ることになって、将来は旧道となるこの町分地区に手を加えて、住みやすさと景観作りをしようという話し合いがあった。その際、朽ちて今にも倒れそうな鳥居の整備を提案したが、散歩で久しぶりに登った麓山神社は倒れそうな鳥居のみならず、参道は熊笹に覆われていて、心地よく山頂まで登れる状態ではなかった。翌日から剪定バサミ持参で笹どもをチョキチョキ。一日に1度は登って地道にチョキチョキしていたら参道らしくなって来た。その後、1月9日に村の諏訪神社で無火災祈願が行われたので、宮司に麓山神社の保全について聞いてみたら、将来整備する計画があることが分かってほっと一安心。
最近、色々気になることがある。例えば、途絶えてしまったもの。
はやまん様(麓山神社)の火祭り。小学生の高学年男子と中学生男子による麓山中腹での花火付き京都の大文字焼のようなもの。
正月2日の天神講。地域の当番の家に中学生までの子供たちが箸と茶碗と米一合を持ち寄って半紙に「真心」の字を筆で書き、中学生が「天満天神宮」と書いた旗を笹竹に付けて諏訪神社に奉納する。それが終わったら、宿になっている家で混ぜご飯を食べて、皆で遊んで、ノートと鉛筆を頂いて解散。火祭りも天神講も私の三男が最後となってしまい次に繋ぐことが出来なかった。数えてみれば途絶えてから20年。
櫓を組んで、笛と太鼓のお囃子で踊った川内甚句もいつからか録音したものが流されるようになり、東郷青年団の獅子舞も舞い手が居なくなって途絶えた。この獅子舞に限って言えば原因は2011年の原発事故に因るところが大きい。
これら途絶えたものを、時代の流れだと一言で片付けて良いのだろうか?年寄りの懐旧だと一笑に付されそうだが、私たちは疑う余地なく、先人が築いたものを土台にして生きているのだと、最近、強く感じるようになった。年のせいかな?