富岡町<漂流する舟とヱビスたち>その①

 

2015年8月時点の仏浜薬師堂

私はこの一年、数名の仲間とともに、富岡町を中心に双葉郡のリサーチを続けてきました。資料を読み、そして実際にその足で町を歩いて回り、震災以前以後、そしてさらに歴史を遡ってゆくうちに、断片的に見えていた町の上に、あり得たかもしれない可能性の町が奥行きを伴って見えてきました。そのような経験を少しでも共有できるよう書き進められたらと思います。

仏浜薬師堂

富岡駅前にはごく最近まで、仏浜薬師堂という御堂がありました。Google ストリートビューで確認すると、少なくとも2015年8月時点では御堂ははっきりと残っています。ここから次にスライドすると、3年の間を置いて2018年11月の日付になり、すでに御堂は跡形も無く、更地になっていることが確認できます。ということはこの3年の内に解体されたということになります。震災時、この薬師堂の敷地の手前までが津波の被害をうけており、薬師堂はもとより敷地内の石仏などは奇跡的に無事であったようです。しかし、原発事故による避難指示区域の指定から2017年の一部解除までの数年間、放置されており、その後の解体に至る経緯はわかりません。今は2015年8月付けのGoogle ストリートビューだけが、近年の姿を確認できるものとなっています。この薬師堂の再建予定の見通しは立っていないようです。

薬師堂の敷地内には如意輪観音の石仏があり、かつての十九夜講においては女性たちが集まって参拝し奉じていたといいます。2020年の6月頃、私含め数人で薬師堂の所在を探して歩き回っていたとき、最初は素通りして気づかなかったほど、草木や雑草が生い茂り、御堂の痕跡も、ましてや石塔石仏の類いも見当たらない状態だったのです。草木をかき分けて、やっと馬頭観音の石塔や如意輪観音の石仏が姿をあらわしたのでした。

仏浜薬師堂跡

仏浜薬師堂跡  石仏石塔    

ところで、この仏浜薬師堂のいわれについて、これから語っていくことになりますが、それは富岡町における「うつろ舟」伝説と深い関係があるのです。

一意法師と<うつろ舟>伝説

1182年、長作という漁師が浜辺に一隻の船が沈んでいるのを見つけ、船を引き上げると、船底より声がして、あけてみると一人の僧侶が薬師如来を抱えていました。その僧侶は飛驒国からわけあって流され、名を慶仁と名乗ったといいます。その慶仁の抱えた薬師如来像を海岸の岩窟の中におさめたのが、薬師堂の始まりであるとされ、一説にはこの伝説から仏浜の呼び名の由来にもなったといわれています。度重なる海岸線の後退により、最初に薬師堂が置かれた場所は海中に没し、現在の富岡駅前の薬師堂は三度目の移転であり、明治24年頃のことです。慶仁が抱いていた薬師如来像は現存せず、900年近い時間の中で、わからなくなってしまったようです。慶仁はのちに一意法師と名を改め、現在まで続く紅葉山竜泉院宝泉寺を開山しました。境内には後世の人々によって造顕された一意法師の墓所が残っています。震災後解体された宝泉寺本堂は再建され、令和3年3月の完成です。

境内には樹齢800年をこえる枝垂れ桜が、町の文化財として現在も毎年春には見事に咲き誇っています。(宝泉寺の開山は資料によっては1099年(康和元年)であったり、1101年(康和3年)であったりとまちまちであり、同時に一意法師の漂着が1182年(寿永元年)であるなど矛盾は多くあります。)

 再建中の宝泉寺本堂(2021年1月現在)

宝泉寺境内にある一意法師墓所

宝泉寺の枝垂れ桜

漁師の長作は、自らの菩提寺である冨知山想真院浄性寺に慶仁(一意法師)を連れて行き、そこで世話をしたとされるのですが、資料によっては浄性寺の開山自体も一意法師によるものであるとされていたりと、はっきりしない部分でもあります。しかしこの浄性寺は天保6年に廃寺になるまで楢葉郡一の真言密教の大寺であったとされています。浄性寺のあった場所は、国道6号線、月の下交差点から商店街を通る県道112号線を西へ、現在では富岡町総合福祉センターとなっているエリアであり、近世、富岡宿に面し、明治29年には楢葉郡と標葉郡の合併で双葉郡が誕生すると、この場所に双葉郡役所が置かれました。明治41年には時の皇太子(後の大正天皇)の東北巡幸に際して、寝所として利用された歴史を持ち、総合福祉センターの敷地内には行啓記念碑が今も立っています。この場所が歴史的には要所としてあったと考えることもできるのではないでしょうか。一意法師と浄性寺のゆかりについては多くが謎ではありますが、法師ゆかりの浄性寺がこの地域においてどのような役割を持っていたかは気になるところです。

明治41年当時の双葉郡役所

現在の富岡町総合福祉センター 

さて、この一意法師が乗ってきた舟こそ「うつろ舟」として記録に残っているのです。うつろ舟伝説は日本各地に存在しますが、民俗学者の折口信夫の考察によれば、うつろ舟とは他界からきた神(たま)の乗り物であり、この世の姿を得るまでの霊魂(たま)が、瓢(ひさご)のような中が空洞(うつほ)の入れ物に宿り、成長するまでのある期間を過ごすものしてあるようです。確かに一意法師はある種の客人(まろうど、まれびと)信仰、漂着神あるいは来訪神のような崇敬の対象としてこの地で迎えられたのかもしれません。この舟、一説には補陀落渡海船だったのではないかともいわれています。補陀落渡海船とは、民衆を浄土へと先導する目的で行者が捨て身を行うもので、戦乱、天災、疫病、飢餓などに荒れる人界を厭い、南方の観音浄土すなわち補陀落山を目指しての生還することのない船出、渡海を行うものです。身体に石を縛りつけ、扉は外から釘打たれ、出ることはできません。最も有名なものでは紀伊の那智勝浦や高知県の室戸岬・足摺岬などからの渡海が記録に多くあります。南方を目指しての船出は、その多くが黒潮に洗われ、東の太平洋沖に流されて、やがて入水していったことでしょう。稀に琉球に漂着し、この地こそ南方の極楽と見定めて、琉球における最初の寺院を建立した僧侶もあったといいます(補陀落山極楽寺を開山した禅鑑上人)。一意法師の場合、どこから渡海を試みたかはわからないものの、偶然にも鹿島灘を越えて北上し、富岡の浜辺に漂着したのでしょうか。はたまたわけあってどこからか逃げてきたのでしょうか。一意法師がどのような理由からこの地に漂着したかは定かではないのです。しかし彼は、まるで海上の他界を彷徨い、それまでの己は一度死に、<うつほ>の中で再び生まれ変わって、漂着した富岡の地で、新たな人生を生きることになったのかもしれません。あるいは熊野や日光がそうであるのに似て、この地を彼にとっての補陀落に見立てることにしたのかもしれないと想像することもできます。いずれにせよ、この一意法師の足跡は、富岡町にしか見当たらず、そして一体何者であったのか、本当のところは誰にもわからないのです。

<その②>へとつづく

キヨスヨネスク地元記者

投稿者プロフィール

1992年生まれ。俳優。劇ユニット「humunus」結成。
ソロで創作活動も行う。声と身体の関係から、風景とそれらを構成する"空間の肌理"を
いかに「うつし」「かたどる」かをテーマに、地域の歴史や風景の変遷、
人の営みのリサーチを通して創作活動をしている。
大学在学中から折に触れて東北のリサーチをはじめ、
2020年より富岡町を中心に浜通りのリサーチを本格的に開始。
富岡に活動拠点として「POTALA-亜窟」を開設。
現在東京と富岡の2つの拠点を行き来しながら活動している。

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