葛尾村の冠婚葬祭

葛尾村の文化や歴史をアーカイブする取り組みとして、今回は「葛尾村の冠婚葬祭」をテーマに記事を公開いたします。本記事は、葛尾村『葛尾村史』(1991)や取材によって得た情報をもとに作成しております。

1.婚礼

 昭和40年頃までは、男女とも20歳前後で結婚したようです。農繁期を避けるために、婚礼は春期または冬季に多く行われていました。婚礼の進め方は主に次のようなものであったようです。

①両家の父兄の意見を聞く。

②親族の考えを聞く。

③話が進めば、受け方より金品を送り、結納(奇数の品)とした。

④婚約が整えば、婚礼当日に媒酌人が受け方に行き、婿と親族(奇数)を伴い、嫁方におもむく。

⑤嫁方では、定めておいた席次に正座して、三々九度の式を挙行する。

⑥式終了後、親戚・知人を交えて祝宴となる。双方に土産品を贈答する。

⑦祝宴中に媒酌人は嫁・婿・親族とともに受け方の家に行く。

⑧受け方でも、嫁方と同じく複式を挙げる。双方に土産品を贈答する。

※受け方:婿の親族

※媒酌人:2人の結婚を列席者に報告する役目を持つ結婚式の立会人

 婚礼では、礼儀作法を心得た周施人が座中に座り、動きを指示し運営を行いました。盃を飲み交わす際には、次のような奥州地方の謡曲である三朝四暮の節を謡ったようです。

※婿に盃を進めて2回飲んだ時

「さんさしぐれか、かやのおあめか、おともせてきて、ぬれかかる、しようがないな・・・」

※同じく2回飲んだ時

「これのざしきは、めでたいざしき、四つのすみから、かねがわく、しようがいな・・・」

※嫁に盃を渡して3回飲んだ時

「これのおかまの、かきだれみたか、こがねこつぶが、なりさがる、しようがないな・・・」

※同じく3回飲んだ時

「むこは百まで、よめ九十九まで、ともにしらがの、はえるまで、しようがないな・・・」

※父親に進める時(嫁方にて)

「きじのめんどり、こまつのもとで、つまをよぶこえ、ちよちよと、しようがないな・・・」

※父親が盃を受けて2回飲んだ時

「これのおにわに、よしこをういて、およめこよめの、なかのよし、しようがないな・・・」

※母親に進める時

「これのかかさん、めでたいかかさ、およめこよめに、なかよめとりて、みぎやひだりに、まねかかる、しようがないな・・・」

※母親が盃を受けて2回飲んだ時

「これのおせとの、まきふじみたか、よしのたからを、まきよせる、しようがないな・・・」

 男子は15歳になると、一般の部落内の人と交際してよいとされました。同時に、若者組に加入し、村祭りの運営や結婚の世話を行ったようです。従来は当人の意志を尊重してきましたが、明治以降は親権の力が強く及ぶようになり、配偶者を自分で選ぶ機会は失われていきました。

 結婚披露宴を「オフルマイ」といい、料理人は「イタマエ」と呼ばれました。オフルマイ翌日の午前中に、姑と嫁は隣組に挨拶まわりをします。その後、隣組の女性を招いてごちそうする「アトブルマイ」を行いました。嫁いで3日目を「ミツメ」といい、姑らとともに嫁の実家に挨拶に行きました。その後、嫁が実家に帰る機会としては、正月・盆礼・祭り・農繁期などがあったそうです。

 結婚した男は、青年会の集まりにて挨拶をし、酒を3~5升ほど出しました。嫁が逃げたときは、嫁の実家は受け方にオフルマイの費用程度を弁償し、嫁を追い出したときは受け方で弁償したそうです。ただ、嫁が逃げるのがほとんだったようです。その背景には、嫁への強い圧力があったと考えられます。ある村の方は、「結婚式が終わるとすぐに花嫁衣裳をはがされて農作業をさせられた」とおっしゃっていました。また、他の方は、「毎日いじめられて逃げ出したかったが、お金も持たせてもらえないため逃げ出すこともできなかった」とおっしゃっていました。このような嫁への強い圧力が当時の村にはあったようです。

 当団体は2019年春の田植えに合わせて、当時の村で行われていた祝言式を行いました。お父さん役を尊重にお願いするなど、村を挙げて行われた祝言式でした。祝言式は村の方々の記憶に残っていたようで、昔の祝言式では誰がいた、何をした、どんなものを食べた、と参加した方の昔話をたくさん聞くことができました。

2.葬送

 死人が出ると、その家では神棚や氏神様を白紙化藁で覆います。死人は床の間に移して北枕に寝せ、布団に箒を乗せます。これには猫がわたると死人が生き返るので、箒で猫を叩くためという言い伝えがあります。学齢前の子が死亡すると略式の葬儀で済ましますが、小学生以上は普通の葬儀を行います。組内で集まり葬式の役割を決め、親族等に知らせる人を決めました。この知らせ役は必ず2人で出ていくことになっていたそうです。

 「寺シラセ」の人は、寺から火縄につけた火を貰ってきて、その火で喪中の家では「リューゴ飯」を炊きました。「リューゴ飯」は、霊に供えるの霊供(れいく)が訛った言葉だと考えられています。棺桶を作った木くずで炊いた飯に箸を2本さして備えました。入棺は直接死体に触れるので、死穢(しあい)を防ぐために、近親者は「カラアシ」という襦袢(じゅばん)に褌(ふんどし)や腰巻ひとつで、縄帯・縄襷に草履を履いた格好をしたそうです。また、その格好で「湯アビセ」を行い、使った湯は日の当たらない竹藪のような場所に捨てました。

 棺桶は現在ほとんど寝棺ですが、もとは座葬でタテ棺を用いたようです。死体が硬くならないうちに膝を曲げ合掌させて棺に入れました。その際、奥参り(出羽三山への参拝)をしたこのある人には行衣を着せました。また、棺には六文銭と五穀を入れました。五穀から芽が出ないようにするために、五穀は炒ったものを使用したようです。加えて、死出の旅路で草履の紐がほどけないように固くタテ結びにしました。

 棺箱は棺台に棺蓋をかぶせて運びます。穴掘り役は、葬式当日の朝に2~3名で出かけ、午後1時の出棺に間に合うように穴を掘ります。墓場に着くと、持ってきた柴を焚き、鍬を左回りに三遍まわりしてから仕事を始めたようです。出棺の際、馬がなくのを忌むため、葬家や隣近所では馬がなかないようにしていました。

 葛尾村には2つの寺がありますが、ともに真言宗・新義派に属しているため、葬送儀礼の内容にほとんど変わりはありません。葛尾村における葬列について、昭和40年代初期の1例を挙げると次のようなものがあります。

穴 掘 :組の人3名

早 蠟 :故人の兄弟

妙 鉢 :故人の嫁の親戚

先無常旗:故人の兄弟2名

先燈籠 :故人の婿

先 籠 :故人の甥

吹 花 :〃

四 花 :故人の孫

前 机 :故人の兄弟

塔 婆 :〃

燭 台 :故人の子

酒 水 :故人の兄弟

明 松 :〃

香 炉 :〃

六地蔵 :故人の甥

供 物 :〃

六 合 :故人の兄弟

霊 前 :故人の子

導之火 :故人の兄弟

蒔 銭 :組の人

導師御供:故人の子

位 牌 :〃

天 蓋 :故人の兄弟

陸 尺 :組の人4名

縁 添 :親族の女性一同

後 龍 :故人の甥

後燈籠 :〃

後無常旗:〃

花 輪 :故人の嫁の兄弟

 現在では、婚礼と同じく、このような形で葬式が行われることはほとんどなくなりました。村の方々に村の冠婚葬祭の話を聞くと、数十年前の婚礼や葬式の話になります。また、一見関係ないようですが、同じく村の方々にカレーライスの話を聞くと、同時期に手作りの小麦粉カレーからバーモンドカレーに変化していることが分かります。このようなことから、ここ数十年の間に村民のライフスタイルが急激に変化していることが推測されます。

下枝浩徳地元記者

投稿者プロフィール

一般社団法人葛力創造舎 

葛力創造舎(かつりょくそうぞうしゃ)は、通常なら持続不可能と思われるような
数百人単位の過疎の集落でも、人々が幸せに暮らしていける経済の仕組みを考え、
そのための人材育成を支援する団体です。 葛力創造舎の「葛」は、福島県双葉郡葛尾村の葛です。原発事故により全村避難となった葛尾村。 震災前も1,500人しかいなかった村の人口は、避難指示解除後100人まで減り、将来も300人程度と
見込まれています。いずれ消滅すると思われてしまう規模でしょう。 しかし私たちは、300人の村でも人々が幸せに暮らしていける方法を模索すべきだと考えます。 そのためには、地域の資源を使って事業を起こし、収益をあげて地域に再投資する仕組みをつくること。 そして、その循環を可能にする人材を育成することが必要です。 葛力創造舎はそれらを使命とし、葛尾村をはじめ、極端な過疎に悩む福島県双葉郡の
原発事故被災地を中心に活動しています。

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