葛尾村の産業史

 

葛尾村の文化や歴史をアーカイブする取り組みとして、今回は「葛尾村の産業史」をテーマに記事を公開いたします。本記事は、葛尾村『葛尾村史』(1991)や取材によって得た情報をもとに作成しております。

1.近世

 室町時代から江戸時代にかけて、全国の農村において商品作物の栽培および加工が発達しました。この背景には、兵農分離によって武士や町人などの消費者によって成り立つ都市が形成されたことがあると考えられます。それに伴って、農村は徐々に貨幣経済へ取り込まれていき、各地域に特色のある産業が成立しました。現在の葛尾村となる地域では、次の3つの産業が特に発達しました。

産馬

 田村郡は馬産地として知られており、産馬の文化が生活に溶け込んでいました。元禄11年(1698年)に、藩主秋田輝季が厳しい藩財政の中でも全五百両かけて次のような産馬振興を行ったことからも、地域と産馬の強い結びつきが推測できます。

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一、藩の種馬による、民有馬への種付け。

一、優秀民有馬の買い上げ確保。

一、二歳馬ウリ市の開設と、売り主への歩合金賦課。

一、孕牝(ようひん)改め、産出牡牝(ぼうひん)改め制確立。

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 産馬振興の影響もあり、葛尾をはじめとする田村郡の馬は「三春駒」として全国的に名を上げていきました。

養蚕

 江戸時代中期には、国内における絹糸の需要増大と幕府および各藩による養蚕の保護奨励により養蚕が非常に発達しました。葛尾村においても、従来は屋敷回り・道端・畦畔などに植えていた桑を畑に植えるようになるというような変化が見られました。養蚕は零細農民にまで広がり、文久元年(1861年)の「糸蛹捌高調」には、1戸あたり蛹が一石七斗四升の収量があり、26戸合わせて七十六両一分二朱一貫二百文の収入があったと記されています。

製鉄 

 阿武隈山系の中央に位置している葛尾村は、多くの山々に囲われており、高瀬川・葛尾川・野川の3川が山合いを流れ、地質は古期花崗閃緑岩・新規花崗岩が分布しています。これらの地形および地質は砂鉄精錬の原料となる砂鉄や木炭の獲得を容易にしました。天和2年(1682年)『奥相秘鑑』において、「野川山に産鉄あり」と記されています。当時は、粘土で作ったたたら炉の中で砂鉄と木炭を用いて鉄を作る「たたら製鉄」という方法がとられていました。

2.明治・大正・昭和(戦前)期

 明治期でも近世に引き続き、産馬・養蚕が産業の中心となっていました。一方、木炭生産は維持されたものの、製鉄は衰退していきました。また、葉煙草栽培が新しい産業として発達していきました。

①産馬

 明治初期には旧藩主が輸送および軍事利用のために産馬振興に力を入れていましたが、財政上の問題から種馬の老衰や死亡の補填ができなくなっていきました。また、地租改正により馬の飼料となる牧草地が国有林となったために飼料不足が生じました。これらの理由から全国的に有名であった「三春駒」は落名の一途をたどっていきます。そのような状況を打開すべく、福島県令に赴任した安場保和は明治7年に産馬会社の設立を企画し、福島県大書記である中条正恒の尽力により明示11年に福島県産馬会社が設立されました。同社は本社を須賀川、支社を若松・三春に置き、民間への俊馬の貸し付けを行いました。

 当時の農家は、一般的に1戸あたり1~2頭の親馬を飼育しており、産馬を行っていました。農繁期には馬を山野に放牧し農作業を行っていました。「馬放し・馬追い」と呼ばれる放牧する馬の管理は子どもの仕事とされていたようです。肥料の確保および農耕作業のために馬は必要不可欠な存在となっていました。また、日清戦争以降、軍馬の需要が高まり、仔馬の生産は農家の貴重な現金収入源となっていました。葛尾産の馬の売買は主に春夏2回開かれた常葉の「馬市」で行われていました。このように、農村において馬は重要な存在でした。これは下図が示している葛尾村における各家畜数の推移において、馬のみ大きな増減がなく安定していることからも読み取ることができます。

養蚕

 政府による養蚕奨励によって養蚕農家が増加していきました。桑畑は主に1~2km離れた山に位置しており、桑の運搬は朝夕に行われていたようです。葛尾村は晩霜の被害を受けやすいため、降霜の影響で収穫がないことも時折あったそうです。下図は、葛尾村の養蚕生産の推移です。降霜の影響もあってか夏の生産量が最も多いようです。全盛期は大正後期から昭和初期であり、昭和中期から衰退していきます。戦後には化学繊維の普及に伴ってさらに生産量が減少していきます。

煙草

 葉煙草耕作指導員制度の導入によって、葛尾村では大正12年から葉煙草栽培が始まりました。葉煙草の生産量は次のようになっています。

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大正12年 5,930kg

昭和02年 4,390kg

  05年 4,340kg

  08年 4,425円

  13年 4,078円

  18年 11,700kg

  23年 22,000kg

4.昭和期(戦時中)

 太平洋戦争時、葛尾村は資源の供給源としての機能を求められていました。

食糧の増産

 農家は軍隊および軍用工場への食糧供給を課されていましたが、その一方で多くの男性が農家から兵士として徴用されたために労働力不足に陥っていました。各農家は堆肥の増産や焼畑の実施により食糧増産に努めていたようです。葛尾村の農産物収穫量の推移は下図の通りです。

木炭の増産

 木炭の需要が高まり、福島県内で生産された木炭が東京まで移出されるようになっていきました。葛尾村では、各部落ごとに木炭生産・出荷に取り組んでいたようです。葛尾村の製炭量および販売代金の推移は下図の通りです。

5.昭和期(戦後)

 太平洋戦争後、葛尾村の産業は大きく変化していきます。特に、葛尾村の産業の中心となっていた林業および畜産業に変化が見られます。また、満州引揚者をはじめとする開拓民の入植など、葛尾村の構成員にも大きな変化が見られたのが戦後の昭和期です。

①林業

終戦直後は、インフラ等の復興のため、木炭や木材の需要が多く、葛尾村でも戦前と同様に木炭・木炭生産が行われていました。特に、木炭は農産物が冷害などの災害に見舞われた際に村の財政を支える重要な存在でした。しかし、昭和30年代後半から電気・石油の燃料としての利用が始まったことで、木炭生産・販売に陰りが見え始めてきました。昭和40年代になると、都市における建築材の需要の高まりから、薪炭材の跡地にスギやアカマツの造林が行われるようになりました。国の緑化政策により造林は補助事業として進められたようです。また、同時期にシイタケの需要も高まり、原木となるナラ・クヌギの供給も増加しました。昭和40~50年代の木炭、パルプ材およびシイタケ原木の業績は次の通りです。

畜産

 昭和時代に入ってからは家畜を飼う農業が盛んになっていきました。仔は現金収入となり、卵・乳・肉といった副産物があり、糞は肥やしとして利用できるためです。戦前までは軍馬の生産のために馬の飼育が盛んでしたが、戦後は羊・牛・鶏の飼育に力を入れるようになりました。

1.緬羊

 葛尾村では、山羊は昔から飼育されており、羊乳を乳幼児に与えるなどしていましたが、緬羊は昭和中期までほとんど知られていませんでした。葛尾村でも飼育されていたようですが、羊毛・羊肉の輸入増加および国内産緬羊の価格低下により、昭和35年以降急速に衰えていきました。常葉畜産農業組合緬羊市場状況は次の通りです。昭和45年に同市は閉鎖されました。

2.肉牛


 昭和20年代から産馬から肉牛へと移行していきます。この動きは農家の若者たちが先導したものであり、昔から馬を飼育してきた人たちからの反対があったようです。次第に馬の飼育頭数は減少していき、昭和40年代になると、競馬用の軽種馬のみが残り、耕作用の馬は機械に取って代わられ、各農家は1~2頭の肉牛を飼育するようになります。昭和50年代には、肉牛を多頭飼育する農家も現れ、やがて畜産専業農家へと移っていきます。常葉畜産農業組合肉牛市場状況は次の通りです。

3.酪農

 昭和28年の冷害による農産物に減収を受け、自然災害による被害が少ない乳牛飼育による酪農を導入する動きが生まれました。酪農は昭和40年代に全盛期を迎えます。葛尾村における酪農の状況は次の通りです。

4.養鶏

 従来、各農家では約5~6羽程度の地鶏を屋敷内の敷地に放し飼いにしていました。毎日残飯を餌として与え、鶏卵を自給していたようです。昭和30年代以降、鶏卵の売買が行われるようになり、飼育羽数が増加していきました。昭和40年代以降、養鶏農家は減少していきましたが、一部の農家が大型養鶏場による鶏卵・鶏肉の生産を行うようになりました。

5.山羊

 昭和50年代までは、葛尾村の各部落で山羊を飼育する農家があり、搾乳した山羊の乳を近所へ分けていたようです。しかし、乳製品が現金で購入できるようになり、次第に山羊の飼育頭数は減少していきました。乳用の山羊は減少しましたが、斎藤商事がワクチンや血清用に数百頭の山羊を飼育していました。

6.養豚

 戦後開拓の農家などを中心に養豚が行われるようになりました。

商工業および企業進出

 戦後、経済復興とともに商工業が発達し、葛尾村にも商工会が成立しました。昭和40年と平成2年の商工業者の業種は次の通りです。

 また、行政としても企業誘致と定着を試みてきました。平成3年時点で葛尾村に所在している企業は次の通りです。

1.株式会社三恵舎福島工場

 1)所在地 :大字落合字菅ノ又

 2)会社創立:昭和46年5月

 3)事業内容:光学レンズ製造

 4)従業員数:30名

2.有限会社葛尾電子

 1)所在地 :大字葛尾字関下

 2)会社創立:昭和58年11月

 3)事業内容:電子機器製造

 4)従業員数:21名

3.葛尾工業

 1)所在地 :大字葛尾字関下

 2)会社創立:平成元年7月

 3)事業内容:オイルシール製造

 4)従業員数:12名

 しかし、産業の中心となっていた林業および畜産業の衰退とともに、村外に出ていく若者が多くなりました。現在の20代30代の葛尾村出身者に話を聞いたところ、約半数程度は村外で生活しているということでした。そのような状況でも村内および周辺地域に残った若者の仕事先となったのが原発関連産業でした。原子力発電所があったことにより、ある程度村内に若者が残ったとも言えるでしょう。

6.平成期

 次の図は総務省「地域の産業・雇用創造チャート」(平成21年度・葛尾村)です。横軸が「稼ぐ力」、縦軸が「雇う力」を表しています。平成21年時点では、建設業・林業・製造業が葛尾村の産業の中心となっていると言えるでしょう。

 しかし、平成23年の東日本大震災による原発事故の影響で葛尾村が全村避難になったことにより、多くの企業が移転や廃業を余儀なくされました。林業で中核を成していた吉田林業は郡山に拠点を移し運送業に軸を置くようになりました。また、株式会社三恵舎福島工場(業務用機械器具製造業)および有限会社葛尾電子(電子部品製造業)は廃業しています。そして、何よりも多くの人が従事していた周辺地域の原発関連産業がなくなりました。 したがって、震災後の葛尾村には震災以前に中心となっていた産業がなくなってしまったと言えるでしょう。

 そのような状況の中で、葛尾村内では大きく分けて2つの系統の新規事業が起こりました。1つは畜産系の新会社が複数設立されたことです。次のインタビューにもあるように「株式会社かつらおファーム」「株式会社牛屋」「株式会社大笹農場」などの新会社が設立されました。

 もう1つは、行政による企業誘致です。次のインタビューにもあるように「葛尾創生電力株式会社」および「金泉ニット株式会社葛尾工場」が企業誘致によって設立されました。

 ここまで近世から現在までの葛尾村の産業の変遷を振り返ってきました。農業および畜産を土台にして、近世では産馬、近代では木炭、現代では製造業などというように時代ごとに中心的な産業があることが分かりました。避難解除から4年である現在の葛尾村は、令和の中心となる産業が育っているフェーズであると考えられるかもしれません。

下枝浩徳地元記者

投稿者プロフィール

一般社団法人葛力創造舎 

葛力創造舎(かつりょくそうぞうしゃ)は、通常なら持続不可能と思われるような
数百人単位の過疎の集落でも、人々が幸せに暮らしていける経済の仕組みを考え、
そのための人材育成を支援する団体です。 葛力創造舎の「葛」は、福島県双葉郡葛尾村の葛です。原発事故により全村避難となった葛尾村。 震災前も1,500人しかいなかった村の人口は、避難指示解除後100人まで減り、将来も300人程度と
見込まれています。いずれ消滅すると思われてしまう規模でしょう。 しかし私たちは、300人の村でも人々が幸せに暮らしていける方法を模索すべきだと考えます。 そのためには、地域の資源を使って事業を起こし、収益をあげて地域に再投資する仕組みをつくること。 そして、その循環を可能にする人材を育成することが必要です。 葛力創造舎はそれらを使命とし、葛尾村をはじめ、極端な過疎に悩む福島県双葉郡の
原発事故被災地を中心に活動しています。

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