南相馬市の「松永牛乳」は、なぜこんなにも愛されるのか

 

松永牛乳は、南相馬市原町区にある、牛乳や乳製品の製造販売会社である。

だがここ2年程、いわゆるコロナ禍以降に松永牛乳が発表した新商品は、

オリジナルマスク、中学校へのダンボール間仕切り、快適マスク、そしてなんと音楽CDである。

コロナ禍の中、定期的に何かしらの新商品で、地元を賑わせて来た。

ーーー乳製品以外の商品で。

 

「松永牛乳ってアイスまんじゅうの会社だよね?CDとか出してるの?そう言えば久しぶりにアイスまんじゅう食べたくなったなー」。

 

そう思ったら、もう見事に井上社長の術中にハマっているのである。

 

ホームページも公式SNSも無い町の牛乳屋が、なぜこんなにも話題をさらうのか。

その秘密を紐解いてみたいと思う。

 

***

 

松永牛乳の看板商品ともいえるのが「手造りアイスまんじゅう」。

生産開始から、なんと約70年というから、もはや南相馬市のソウルフードだ。

ミルク風味のアイスキャンディー部分は少し固めになっている。それもそのはず、「アイスまんじゅう」の名の通り、その中にはこだわりの練りあんが入っているからだ。

ミルクとあんこの甘さが口の中でうまい具合に溶け合い、気づけばペロッと食べてしまっている。

双葉町出身の私の元同僚は「このアイスは俺が子どものころから売っていて、本当にうまい。ほかのところのとは違うんだ」と少し自慢げに私におごってくれたことがある。

アイスまんじゅうは、福島県相双地方(相馬~双葉エリア)の人たちの思い出に、刻み込まれているようだ。

(「ふるさとチョイス」より引用)

 

「でも僕は、アイスまんじゅう好きじゃないんですよね。だってあれ、固いじゃないですか」。そう言ってのけるのは、そのアイスまんじゅうを生産している、松永牛乳の社長・井上禄也さん。一体どういうことなのか……。

***

 

さかのぼること11年前。
2011年3月、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の発生により、井上さん一家は県外に避難を余儀なくされていた。
福島に戻るか、避難先に残るか。当時はまだ、放射能の影響がどのようなものか、情報が錯綜しており、「戻らない」という選択も有り得た。

 

しかし井上さんは、戻ることに決めた。「従業員を守るのは当然のこと、自分の生まれる前から南相馬にあった『松永牛乳』というブランド、『アイスまんじゅう』という商品が無くなってしまうということに、大きな『違和感』を感じたのです」と振り返る。

 

当時、南相馬市に戻った市民は多くはなかった。

特に井上さんと同年代の、小学生以下の子どもがいる世代は避難先にとどまる人が多く、戻ってきたのは、土地や家を守るという思いの強いお年寄りが多かった。

 

そんな中、井上さんは、松永牛乳で長らく生産を中止していた「バニラアイス」を復刻させた。

70年の歴史のある「アイスまんじゅう」だが、井上さんの言うように、はじめは固いので、お年寄りや子どもには食べづらかったのだ。

「孫が避難先から、おじいちゃん、おばあちゃんの家に来た時に、『アイス食うか?』って出せるものをと思いました。おじいちゃん、おばあちゃんには懐かしく、子どもたちには食べやすく。地元の牛乳会社だからできることです」。

 

 

(道の駅「南相馬」HPより引用)

 

アイスクリームは、生きるために必ずしも必要な食べ物ではない。
だが、食べることでちょっと幸せになれる、会話の糸口=コミュニケーションツールになる。だから必要とされるのだ。

 

もちろん、アイスまんじゅうの生産も続けた。「アイスまんじゅうは、文化や歴史のようなものだから、継続して生産しなければいけないと思っています。『ソウルフード』になってしまうと、安易に値上げができず、辛い部分もあるんですけどね」と、裏事情も話してくれた。

 

井上さんの言うとおり、南相馬市民にとってアイスまんじゅうは、そこにあって当たり前のものなのだろう。南相馬市に戻ってきたときに、アイスまんじゅうが売られているのを見て「帰ってきたなぁ」と感じる人も多いはずだ。だから、常にあり続けなくてはならない。
井上さんの言葉に、「震災があったからこその、地元企業の在り方」を見た気がした。

 

 

井上さんは、「コミュニケーション」をとても大切にしている。

 

本社工場の壁に掲げられた、「のんだら乗るな のむなら牛乳」の標語。
見た人誰もがツッコミを入れたくなるこの標語も、コミュニケーションツールの1つだという。「初めて我が社を訪問する人への話題提供といいますか、話のきっかけになりますよね」と笑う。ちなみにステッカーとしても販売されており、売上は好調だそうだ。

 

2020年4月、新型コロナウイルスの感染予防対策として、学校の教室の机に設置できるダンボールの仕切りを提供するというアイデアも、コミュニケーションから生まれた。
コロナ禍による小中学校の休校で、南相馬市内の小中学校に牛乳を納品していた松永牛乳も大きな影響を受けた。しかし学校とコミュニケーションをとっていたことで、学校の現場に何が必要なのか想像することができ、地元企業としてすぐ行動に移すことができたのだ。

 

***

 

それに加えて、井上さんは、SNS(個人のフェイスブック)で、緩急さまざまな発信を行っているが、これは震災後に始めたことだという。

「うちの会社には、ホームページも公式SNSも無いんです。ただ定期的に、自社商品の放射性物質検査結果を公表しているページがあるだけです。だから、検索した時はもちろん、ふとした時に松永牛乳を思い出してもらえるよう、双方向になる発信を心がけています」。

 

初めて会う人、久しぶりに会う人でも、共通の話題で話ができるように。

コミュニケーションの障壁を取り去るために、SNSで発信するし、乳製品以外の商品も発売するというのが、井上さんのやり方だ。「ネタの提供と言いますか、ただ待ってるだけ、一方的な発信からは何も生まれません。コミュニケーションしたいんですよね。ステッカーもダンボールもCDも、もちろんアイスも、コミュニケーションツール。コミュニケーションから仕事も生まれますし、言ってしまえば福島県産品の『風評被害』も、ほとんどはコミュニケーション不足が原因だと思っています」と、笑顔を浮かべながらも、最後は真摯に話してくれた。

 

 

乳製品以外の商品開発も、SNSの発信も、すべては松永牛乳のコミュニケーションツールだった。

そしてその内容が、きちんと人と地域の方向を向いているから、世間の話題にのぼり、「松永牛乳を忘れさせない」という、井上さんの作戦は成功しているのだ。

 

次は、どんなアイデアが飛び出して来るのだろう。

松永牛乳を飲みながら、アイスまんじゅうを食べながら、CDを聴きながら、楽しみに待つことにしようと思う。

 

 

文・写真 山根麻衣子(双葉郡在住ローカルライター)

 

 

 

松永牛乳株式会社 放射性物質検査結果
http://www.matsunaga-gyunyu.co.jp/

井上禄也さん フェイスブック

https://www.facebook.com/inouerokuya.inouerokuya

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