葛尾大尽の歴史を探る

 

葛尾村の名前の由来は、皆さんご存じですか?
葛尾大尽・松本家の祖先が、信州の葛尾城(葛尾城跡の場所はこちら)から相馬に落ち延びたとき、まだ地名がなかったこの地に土着し、故郷のお城の名前である「葛尾」と名付けたのが始まりと言われています。

では、葛尾に土着した松本一族は、どんな人たちだったんでしょうか?またその人たちはどんなことをしてきたのでしょうか?

今回は、葛尾に残る「葛尾大尽物語」をご紹介するとともに、それにまつわる建造物や民俗芸能などもご紹介したいと思います。なお、テーマが歴史のため、文献から引用する部分が多くなりますが、自分なりに分かりやすく文章を作り直しています。

■「大尽」って何?

あまり目にすることのない「大尽」の文字。総理大臣とかの「大臣」とは違って、「尽くす」という文字をあてがっています。この「大尽」を辞書で検索すると『財産を多く持っている人。財産家。大金持ち』と出てきます。このことからも、一族は、相当な富豪だったと推測されます

■葛尾大尽物語

時は戦国の世。
信州の葛尾城主だった村上義清は、天文22年(1553年)、武田晴信(信玄)の攻勢により葛尾城を捨て、上杉謙信を頼って越後に逃れました。一方村上義清と関係のあった松本勘解由介(かげゆのすけ)は、相馬に落ち延びました。

勘解由介は、相馬家の当主顕胤(あきたね)から相馬と三春の国境警備を命じられました。その当時、葛尾は三春領と相馬領の支配下に分かれていて、国境警備が必要な場所でした。

葛尾は地形・地質から砂鉄や木炭の獲得が容易であり、松本一族はそれを活用して製鉄の事業を始めようと計画を進めていきます。

事業はすぐに軌道に乗り、勘解由介の孫好倉(よしくら)の代では、製鉄業をはじめ、生糸・木炭の生産、酒造り、両替などで巨万の富を築き上げていきました。天和2年(1683年)には、野川山に三千貫目(11.25トン)の産鉄があったと伝えられています。好倉の子、重供(しげたす)は、屋号を「鉄屋」と称し、鉄の売買にあたっていたとみられています。

最盛期の江戸時代中期、8代目当主の聡通(さとみち)の頃には、相馬藩や三春藩、棚倉藩に現在のお金に換算して約20億円を貸し付け、その見返りに山林伐採、酒造米の買い入れ、塩の売買などの独占権を得ていました。聡通には3人の妻がいましたが、京に行商に行ったときに見初めた公家の娘であるイネを後妻として、京から迎え入れました。

しかし、残念なことに、明治4年と昭和8年の火災で多くの建物が焼失し、家業の中心だった製鉄業が振るわなくなるなどして、次第にその勢いは衰退していきました。今日では繁栄の姿は見ることはできなくなってしまいましたが、葛尾村郷土文化保存伝習館に文献などの資料や出土品が多数展示されているほか、薬師寺の収蔵物や三匹獅子舞などに当時の繁栄のあとを見ることができます。

■ 大尽屋敷跡の今

葛尾村の山里に存在していますが、現存する建物は1棟もなく、ひっそりと佇んでいます。約2ヘクタールの広大な敷地の中に、屋敷を築くための石垣や、近江八景庭園、能見池などが今も残っていて、どなたでも自由に散策することができます。

○ 近江八景庭園

8代目当主の聡通が京から迎え入れた妻のイネを慰めるために造った庭園です。池泉回遊式庭園と枯山水で、自然の起伏を巧みに活かして近江八景を模しています。池のほとりには「燈篭」「泉水橋」「手水鉢」などがあり、茶会や能が行われていたことをうかがい知ることができます。

○ 能見池

三春藩主や相馬藩主などを招き、池に船を浮かべて能や狂言を鑑賞したと伝えられています。石垣の上には聡通の妻イネが京から持参したといわれる京桜があり、気品ある花を咲かせていましたが、残念ながら今は残っていません。

○ あかずの池

本宅の西側にある池です。池の奥に入口があり、家宝を蓄えていた蔵に通じていたという説や、有事の際の避難口があったなど、様々な説があります。それにしても「あかずの池」という命名は、いざという時に困ってしまいそうで不吉ですよね(笑)

■ 葛尾大尽に関係する史跡・資料館・民俗芸能

大尽屋敷跡以外で葛尾大尽にゆかりのある史跡や資料館、民俗芸能をご紹介します。(こちらをクリックすると地図でゆかりの地をご覧頂けます)

<磯前(いそざき)神社>

葛尾村にある神社の中で一番格式の高い村社のうちの一つです。大永2年(1522年)に勧請されましたが、それ以前は薬師如来を祀っていました。明治2年(1869年)に神社法の改正によって磯前神社となりました。

屋根の上には炎の形をした宝珠があります。宝珠とは、これを得ることによりいかなる願いも叶うといわれているもので、福島県内でもこれだけ大きな宝珠は珍しいです。また境内には歴代の葛尾大尽の49の墓石群があります。これらの墓は参詣墓で、遺骸を葬った墓は磨崖仏に向かう道のそばにあります。

<薬師寺>

早馬山(はやまさん)薬師寺は、天文6年(1537年)に建てられた真言宗のお寺です。葛尾大尽一族も代々深く信仰していました。ご本尊は大日如来像で、8代目当主の聡通の妻イネが寄進したものです。

萬海坊行庵(まんかいぼうぎょうあん)和尚が、出羽の国の湯殿山での永年の修行を終えての帰路、この地に立ち寄り、浪江町幾世橋の大聖寺の末寺として開山しました。

<磨崖仏>

磨崖仏とは、自然の大きな岩に彫られた仏像のことで、全国に多数存在します。葛尾村にも自然の大岩に、宝永6年(1709年)、2代目葛尾大尽の重供(しげたす)の時に七体の仏像(文殊菩薩・大日如来・阿弥陀如来・虚空蔵菩薩・不動明王・聖観音菩薩・地蔵菩薩)が彫られました。

ちなみに「如来」は悟りを開いた仏、「菩薩」はまだ修行中の仏、「明王」は大日如来の化身ともいわれ、仏教の教えに従わない者を厳しく説き伏せる仏です。薬師寺のご本尊である大日如来は真言宗では最高の仏で、阿弥陀如来は仏教で最高の仏です。

<葛尾村郷土文化保存伝習館>

葛尾村役場に隣接した場所にあります。館内には、葛尾大尽ゆかりの展示も数多くあります。 中でも涅槃像掛け軸や大般若経600巻は葛尾大尽と深い関わりがあるほか全国的にも貴重な文化財で一見の価値ありです。開館日時は平日の9:00~16:30、入館は無料です。通常は施錠されていますので、見学したい場合は事前に葛尾村公民館(0240-29-2008)までお電話をお願いします。

<三匹獅子舞>

三匹獅子舞は、江戸時代の中期にあたる元禄年間に、初代葛尾大尽の松本好倉が再興したといわれています。日山(天王山)の牛頭天王に奉納し、下山してから自宅(葛尾大尽屋敷)の庭で「笠ぬぎ」の舞を舞わせたのが始まりで、これが長く引き継がれて今日に至っています。奉納は、古くは牛頭天王、現在は日山神社の霊を三匹獅子舞でお慰めをし、部落安泰、疫病退散を祈念することを目的としています。

<薪能>

東日本大震災そして原発事故で大きな影響を受けた葛尾村の復興と活性化のために、令和元年9月28日、葛尾村では162年ぶりに薪能が能楽師を招いて催されました。栄華を誇っていた葛尾大尽の屋敷で江戸時代の末期に能や狂言が催された記録があり、かつての繁栄が1夜限りながら再現されたことで、村に明るい光が差し込みました。

どうでしたか?葛尾大尽の歴史について、ご参考になりましたでしょうか?2020年度には大尽屋敷の改修工事を実施していますので、完成後にはまた新しい風景を見ることができるようになると思います。ぜひこの機会に葛尾村へ足を運んでみてください。素晴らしい感動が待っているはずです。

一般社団法人 葛尾むらづくり公社

投稿者プロフィール

葛尾村が東日本大震災及び原子力災害による長期にわたる避難からの復興に取り組む中、村民が主体的に活躍、交流できる機会や場の提供などを通じて、人と人を「繋ぐ」役割の中核を担い、村民の絆を維持するとともに地域資源を活かして新たなにぎわいと活力を創出し、交流人口の拡大と地域活性化を図ることにより復興と魅力あるむらづくりに寄与することを目的としています。

この著者の最新の記事

関連記事

ページ上部へ戻る