第1回請戸団地
令和2年9月29日、浪江町に請戸住宅団地が完成しました。東日本大震災・福島第一原子力発電所の事故(以下、原発事故)から9年6カ月後にできた住宅団地です。
福島県内では、直ぐには自宅に戻れない方々のための復興公営住宅が4890戸整備されました。また、一部地域の避難指示解除に合わせながら、各市町村では帰還者が入居する災害公営住宅や移住者でも入居可能な公的賃貸住宅が整備されてきました。
この請戸住宅団地も町が整備を進めてきた点で、これらの公的な住宅と同じ位置づけにあるものです。しかし、「請戸」と名前がついていることに、特別な意味を私自身が感じています。請戸地区は、ご存知の方も多いとは思います。港があった浪江町の太平洋沿岸部の地区で、津波被害により壊滅的被害を受けるとともに、直後の原発事故で避難を余儀なくされ、捜索活動も思うようにできなかった地区でもあります。今回は、この「請戸住宅団地」誕生のお話をお伝えしたいと思います。
浪江町の津波被災地は、請戸地区のほかに、棚塩地区・中浜地区・両竹地区・北幾世橋地区があります。中でも最も多くの住宅があったのが請戸地区です。
浪江町で地震・津波で亡くなられた方は182名いらっしゃいます。地震・津波襲来の翌日となる平成23年3月11日5時44分、福島第一原子力発電所から半径10㎞に避難指示が出され、それ以来、住民の方は立ち入ることができない場所になりました。もちろん、捜索活動もできなくなり、助けられたかもしれない命が助けられなかった場所です。その状況を想像するたびに今でも胸が詰まります。
原発事故がなければという思いが頭をよぎります。いつ帰れるかわからない中、生活再建をどうしていくかという大きな課題がありました。戻りたい、そう願っていた方たちも多くいたはずです。大きな壁は住宅の賠償問題にもありました。たった1日違い、でも地震・津波による自然災害が先だったために、住宅に対する東京電力の賠償はゼロでした。生活再建をどう考えるか、様々な考え方がある中で、津波被災地域の方が選択したのは「集団移転」という道でした。土地を町に売却し、それを資金の一つとして別の地に移転をするという決断をされたのです。長年住み慣れた土地、代々引き継いできた土地を手放すという決断には様々なストーリーがあったのではと想像します。
町は、この地域の決断を受け、津波被災地を災害危険区域に設定しました。災害危険区域には、寝泊まりをともなう住宅・施設は建てることができません。この地域にあったコミュニティは完全になくなります。
かつて人々の生活があった場所は、現在大きく姿を変え続けています。住宅は基礎まで撤去され、沿岸部から約200ⅿの幅で、海岸防災林が整備されています。
一方、震災と原発事故当時から変わらない風景もあります。沿岸部の平野の広大な請戸地区の水田は手つかずのままです。もともと高齢化が進み、兼業農家がほとんどだったこの地の農地再生・活用には時間がかかります。
さらに、人が住まない地域での農業、いまだに続く風評被害とどう向き合っていくかも大きな課題です。
ここまで読んでいただき、読んでくださっている皆さんはどんな気持ちになっているでしょうか。東日本大震災・原発事故がもたらした事実をどう受け止められたでしょうか。
課題山積、一気には解決していかないというのが現状です。当然ですよね、皆さんバラバラになってしまったのですから。
でも、この中に様々な光も見えてきているのです。その一つが何といっても令和2年4月に再開した請戸漁港での競りです。震災前に94隻で操業していた請戸の漁業は船の数こそ3分の1程度となりましたが、以前のような活気が港に戻ってきました。近隣には、水産加工業者も戻り、請戸漁港で水揚げされた魚を捌き、直売もされています。そして、令和2年8月にオープンした道の駅なみえのフードコートでは請戸漁港で揚った魚を使った海鮮定食も提供されています。漁港再開は、浪江町にとって大きな大きな前進なのです。
震災前の「請戸」には、住むことができない、でも請戸に住みたい、この話は集団移転を決める前からあったことです。住民と町との集団移転の話し合いの中では当初3か所の町内での移転先候補がありました。時間の経過とともに、町内を移転先として希望する方の数は減少しました。あたり前ですよね、いつ帰れるかわからない状況です。そんな中で、4~6年後に住むかと聞かれても答えようがない方が多かったと思います。避難先でも目の前に生活があるわけですから、多様な考え方があって当然です。
しかし、住宅団地の場所と規模を決める際に、請戸という土地に住みたいと答えた方が46世帯あったのです。震災前に比べれば10分の1に満たない規模、でも住みたいという方がいらっしゃる事実を大切にしていきたい、当時この事業を仲間とともに進めていた私の想いでした。
かつて皆さんが住んでいたい土地はほとんどが災害危険区域であり、「請戸」という地名で人が住める場所は海から1㎞ほど離れた大平山だけでした。先行して整備された大平山霊園(津波被災地の墓地の移転先)の近くの山を切り開き、海が見える造成をしよう、そんなコンセプトに基づき、計画は進められました。実は、この地には埋蔵文化財があり、住宅地整備前には文化財調査で時間を要することもわかっていました。住宅供給までに時間がかかり、その間に住みたいと声を上げてくれた方たちの生活や考え方も変わっているかもしれない、そんな一つの不安もありました。しかし、この地に住みたいという方の想いがあることを胸に計画を推進してきた町の担当者の方たちがいることも忘れてはならないことだと思います。
町内移転先として候補に挙がった3か所のうち、2か所の整備を決定し、そのうちの1か所(幾世橋団地)は、浪江町の一部地域の避難指示解除となった平成29年3月31日約3か月後に供用開始となりました。そして、震災から9年半、一部地域の避難指示解除から3年半で、請戸住宅団地が供用開始となったのです。
震災前のコミュニティ・風景は戻りません。しかし、町の多くの方々の想いが「請戸」という居住地域の実現につながりました。新たな請戸のコミュニティのはじまりとも言えると思います。
皆さんが今住んでいらっしゃる地域はどのようにしてできてきたのでしょうか。調べてみると、そこに住んでいる意味が新たな視点から発見できるかもしれませんね。請戸住宅団地誕生のストーリー、人々の想いや地域への愛着が未来を生んでいくことが少しでも「伝わっていたら嬉しいです。