震災の記憶と現在の福島県浜通りを訪れた感想
今回福島県の浜通りを訪れることになり2011年の東日本大震災のことを思い出しました。今からもう9年前の出来事になるわけですが当時の事は鮮明に覚えています。
今回は訪れた福島県浜通りの2020年についてと、僕が記憶している2011年の東日本大震災当時のことを書きたいと思います。
■ 2011年、東日本大震災当時の記憶
東日本大震災があった2011.3.11、その日にテレビに映された、津波に飲まれていく街の様子はあまりにも衝撃的でした。日本中、世界中に衝撃を与えた震災だったことと思います。
僕は、東日本大震災の翌日に友達の結婚式が予定されていて、開催されるか不安でしたが、新潟市は被害がほとんどなかったので、とりあえず開催の運びとなりました。
そして結婚式当日には福島第一原発が制御不能になっていることがニュースに取り上げられていて、仲間内で話題になっていました。
そして、その後、福島第一原発の状況は刻一刻と悪くなっていきました。
また、電力が不足することから、全国で計画停電が行われました。よく記憶していますが、新潟市の夜の街から街灯が消えて、非常に奇妙な光景でした。
僕は、東日本大震災から約3週間後に、仙台に支援物資を届けることとボランディアに参加する目的で、仙台に車で来ないかという誘いをいただきました。
何か被災地のためにできることはないかと、ずっと思っていた時期だったので、話をもらった際、二つ返事で、会社の3連休を使って行くことにしました。
仙台に着いて、目にした景色があまりに衝撃的でした。
テレビや新聞である程度の現地の惨状を見ていましたが、自分の目で見るそれは、スクリーンや紙面を通してみるものと全然違い、凄まじい衝撃が走ったのを今でも鮮明に覚えています。
横たわる車、陸に乗り上げた船、住宅があったであろう地域にあるのは見渡す限りの瓦礫の山。
3週間経っても全く片付いていませんでした。膨大な瓦礫は処分するのに相当な時間と労力を要するだろうと見てわかりました。
僕が訪れたのは3月30日〜4月1日の3日間だったんですが、仙台市内では、水道と電気は既に復旧していました。ただ、多くの地域でガスがまだ復旧していませんでした。
泊まったのは友達の会社の事務所で、床に布団を敷いて大勢で寝泊りしましたが、ガス暖房を使っていたビルだったので、暖房が使えず底冷えが辛かったのを記憶しています。
3月終わりの東北はまだ寒く、部屋の中でもずっとダウンジャケットを着ていました。
そのビルはガス給湯システムだったので、お湯が使えませんでした。
ボランティア活動で泥の書き出しして汚くなったので、シャワーを浴びてきれいにしたかったんですが、浴びることができませんでした。
近くの銭湯が時間限定で営業していると聞きましたが、結局利用するのをやめてお風呂は我慢しました。
地元の人で混雑しているであろう時間限定の銭湯に、県外から来た自分が利用することに対して、気が引けたからです。
たった2泊くらいシャワーを浴びないことは我慢できたし、被災された方はきっと何日もお風呂に入ることやシャワーを浴びることができていないだろうと思うと、銭湯に行くきにはなれませんでした。
ボランティアセンターのスタッフとしてボランティアをしました。
ボランティアをしたいと希望する人への仕事の割り振り、説明などをする仕事。
また、実際現場に行って泥の書き出し作業も行いました。
ボランティアに来ていたほとんどの人は地元仙台もしくは周辺の地域の人で、困っている人を助けようと言う温かい気持ちを持った人たちが毎日たくさん来ていました。
泥の書き出し作業をして感じたのは、やっぱり人手がかなりたくさん必要だと言うことでした。
僕が泥の書き出しのボランティアに行った時、僕を含めたボランティア2人と依頼してくれたお母さんの3人で作業していたんですが、三人では全く終わらないだろうと見てわかる作業量の現場でした。
ところが作業を開始して1時間後位たった頃、9人のボランティアが他の現場から助っ人として来てくれて、合計12人になって作業行ったら2時間ほどで一気に終りました。
ボランティアスタッフの人手は大事だなと痛感しました。
ボランティアをさせてもらったお家には、お子さんが2人いて、「子供と一緒じゃ片付けできない」と言うことでボランティアセンターで子供預かってもらっているとのことでした。
■ 2020年、福島県浜通りに訪問して見たこと、感じたこと
そして、今回福島県浜通りの南相馬市に訪れることが決まった時、最初に頭に浮かんだのが東日本大震災の復興状況でした。
福島は津波の被害よりも、どちらかと言うと福島第一原発の事故による被害の方が大きい印象でした。
南相馬市にもかなり津波が押し寄せてきて、被害が大きかったことを知りショックでした。
また、過去に、小高町(現在の南相馬市小高区)と浪江町の場所で、浪江町議会が原発の誘致を決めて、住民が二分するほどずいぶんと議論されてきたこと、そして反対派が最後まであきらめなかったことから原発の建設には至らなかった歴史があることを知りました。
でも近隣の大熊町と双葉町に東京電力の福島第一原発が建設されてしまいました。
そして、2011年、原発を拒み続けた反対派が浪江町にいたにもかかわらず、東日本大震災による福島第一原発の事故の被害によって小高区と浪江町は避難を余儀なくされました。
皮肉なめぐり合わせにやるせない思いでした。
今回、南相馬市の原町に滞在して、ずいぶんと復興が進んだのではないかと感じれました。
知らない人が見たら、地震や津波や原発事故なんて、何もなかったように映る町並みかもしれません。
小高区にも今回訪れて、まだ避難解除になってから4年ほどしか経っていませんが、少しずつ人が戻ってきている感じがしました。
小高区の小高駅前にあるカフェOdaka Micro Stand Barでは、2016年に小高に移住された方から、Odaka Micro Stand Barを作った話を聞かせていただきました。
小高パイオニアヴィレッジという宿泊できるコワーキングスペースを見学させていただいた時にも、福島県外からの泊まりに来ている方も多いこと、スタッフの方も県外から移住されてきたと知り、新しい人たちが入ってきて、少しずつ街が新たな形で作られていくのだなぁと感じました。
小高パイオニアヴィレッジのオープンエアなコワーキングスペースには、たくさんの人が仕事したり、会話したりして過ごしていました。
小高区は、原発事故により2016年7月まで避難指示区域だったことから、一時的に人口0になり、全く0からのスタートを2016年に切ったこと、そして、原発事故前は小高区に住んでいたが、それぞれの理由により避難指示解除後も避難先から小高区に戻らない人たちもいることを教えてもらいました。
特に子供がいる家庭では、子供が避難先の学校に馴染んでしまうと、なかなか戻れないそうです。
確かに5年住めばそこに慣れ親しんでしまいますよね。
一方でまだまだ、除染作業が完了しておらず放射線量が非常に高いレベルにある地域は、帰宅困難区域としていまだに人が住めない状態になっています。
まだまだ復興は半ばであることが理解できました。
福島に訪れなければこういった現在の状況も、日常の生活の中ではなかなか知ることができないので、今回の福島訪問は、東日本大震災の福島第一原発事故からの復旧、現状を知ることができた貴重な機会となりました。
今後も東日本大震災の福島第一原発の事故を忘れることなく、また機会を見つけて浜通りを訪れて、現状を知る機会と作っていきたいと思います。