富岡町<漂流する舟とヱビスたち>その④
富岡町 新福島変電所
富岡町 新福島変電所
富岡町の歴史を調べていくうち、この地が<流れ着き、そしてそれが居着く場所>としての性質を持っていることが見えてきました。富岡の地名の由来の一つには、この地が古来「留め(る)岡」だったというものがあります。外から流れ着いたものがこの地に「留まる」そしてそれが「富める」ものとなっていく。私は富岡という地名にはそんな漂着するもののイメージがすでに内包されているように思えてならないのです。
そして同時に、この富岡が歴史上常に境界的場所として存在していたこととも関係があるのではないでしょうか。
境界としての富岡町
富岡町は、浜通りの中心に位置します。鎌倉幕府滅亡後、南北朝の動乱が起こり、後醍醐天皇(宮方)と足利尊氏(武家方)の対立が激化していきました。この時、浜通りで南朝方についたのが、楢葉氏と標葉氏であり、北朝方についたのが岩城氏と相馬氏でした。この当時の南朝方、すなわち楢葉氏(楢葉郡)と標葉氏(標葉郡)が、現在の双葉郡地域にあたります。この楢葉・標葉地域を舞台に激烈な戦闘が繰り広げられ、富岡町にかつてあった朝賀城(高津戸館)が北朝勢の猛攻をうけ、この地域は敗北の憂き目を負ったのです。南北朝動乱後、15世紀末以降、楢葉氏は文献から登場しなくなり、1492年には標葉氏が相馬氏に滅ぼされ、楢葉氏と標葉氏がそれぞれ岩城氏と相馬氏の背後に退くと、いよいよ富岡を境にして、岩城・相馬両氏が直接対峙することとなり、富岡町内にかつてあった大菅館、日向館、下郡山館を築造・改修を行いました。富岡町では双葉郡で最も多くの城・館跡が見つかっていることから、富岡地域は両氏の支配を交互に繰り返しながら、にらみ合い、常に領境として、また緩衝地として存在することになったことがわかります。そして岩城領と相馬領の境界線となったのが、富岡町の夜ノ森地区、及び、小良ヶ浜地区だったのです。
富岡町内 城・館跡 富岡町史第2巻 資料編より
富岡地域はかつての楢葉氏と標葉氏、そして岩城氏と相馬氏の間で常に不安定な地域だったと考えることができます。16世紀、相馬の支配をうけていた富岡地域は再び岩城領に復帰し、当時の領主富岡隆時は、岩城氏と相馬氏の間で板挟みとなり、何よりいつまた相馬が進行してくるかわからないという緊張状態に常におかれていたといいます。岩城や相馬だけでなく、伊達や田村など中通りの勢力も度々侵入し、こうして富岡町は繰り返される抗争によって戦場化する事が多く、異質勢力権の接触地帯だったことがわかります。磐城平藩時代には藩領地の末端となり、江戸時代中期以後は幕領や小藩の領地に分割され、村ごとに統一を欠き、不安定な土地であったといいます。しかし双葉郡及び浜通り地域におけるちょうど中間地帯としての富岡は、ある種の中心性をもっていることもまた事実であると思います。古代から中央政権の東北征定の基地として、そして中世以降近代まで岩城・相馬地方などの商人などが富岡を中心に交易や商業を行い、中央商店街はかつて富岡宿と呼ばれ、浜街道の要所としてあったようです。
境界の守り神 大年神社と赤坂神社
富岡町が夜ノ森と小良ヶ浜を境にして岩城領と相馬領に分かれていきました。一説には、夜ノ森を「余の森」小良ヶ浜を「おらが浜」と呼んで、双方の勢力が領地を主張し合ったことが由来だとも言われます。現在、この夜ノ森、小良ヶ浜地区は、原発事故による帰還困難区域となっているのです。
帰還困難区域 富岡町帰還困難域再生構想(2017年12月)より
(帰還困難区域は、大菅行政区の一部、夜の森駅前北、夜の森駅前南、深谷、小良ヶ浜、新夜ノ森の6 行政区。そして、鉄道施設区域及び夜ノ森駅までのアクセス道路については、令和2年3月10日午前6時をもって解除され、 現在一部解除となった。)
さて、この2つの地区は町の北東部に位置し、西が夜ノ森、東の海側が小良ヶ浜ですが、この地区にはそれぞれ大年神社、赤坂神社という境界の神社が存在しています。夜ノ森にある大年神社は「境のお正月様」と呼ばれ、古来から大熊町との境になっている境川沿いに鎮座していたものを、昭和二十年に現在の位置に移したといわれます。本来鎮座していた場所には、相城の桜という銘木があり、名の由来も、花は相馬に向かって咲き、根は岩城を向いて伸びている、からだそうです。まさに岩城・相馬の境界の神社であったことがわかります。御祭神は大年神で、(一般的には正月に来訪する年神様として知られる)領地境界に祀られ、外から持ち込まれる悪疫災厄を防ぐ賽の神として、信仰されてきたようです。現在は帰還困難区域内にありますが、大年神社境内には摂社である八坂神社が祀られいます。八坂神社は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っています。実は大年神は、素戔嗚尊の子供なのです。素戔嗚尊は祇園精舎の守護神である牛頭天王と習合した神であり、疫病神でもあります。素戔嗚尊を祀る神社はその意味で悪疫退散を意味します。そもそも素戔嗚尊や大年神は来訪神の性格を持っているのです。
富岡町 夜ノ森の帰還困難区域内桜並木の通り。この通りに面して大年神社はある。
富岡町夜ノ森 大年神社 社殿
大年神社 武道館
大年神社 武道館内 当時のままになっている。
小良ヶ浜にある赤坂神社も、祭神は素戔嗚尊です。明治以前は牛頭天王社といわれ、地元では天王様と呼ばれていたといいます。素戔嗚尊は水神の性格を併せ持っています。大年神(歳徳神)も含め、一説には陰陽道において八大龍王との関連性が説かれていますが定かではありません。このように領地の境界に、それぞれ大年神社、赤坂神社という同じ系譜の神が祀られています。どちらも外からもたらされる悪疫を防ぐ疫病神の性格もった来訪神なのです。外から穢れや災いを持ち込むものが、かえって守護神となって信仰される例は多くあります。
富岡町小良ヶ浜 赤坂神社
境内にある宮毘羅宮
(薬師如来十二神将筆頭であり龍王でもある宮毘羅大将を祀る。素戔嗚尊=牛頭天王の本地仏は薬師如来)
赤坂神社境内の石塔
反復する荒れ地
富岡町は歴史上境界として、戦場化することをくり返し、荒れ地を反復してきました。古代から中央政府と蝦夷の人々の激しい戦いが、南北朝の動乱が、岩城や相馬の抗争が、戊辰戦争時の激しい戦いが行われてきました。そして東日本大震災と原発事故によって、再び境界の地としての荒れ地を反復することになったのだと私は感じました。富岡町は福島第一原子力発電所と福島第二原子力発電所のちょうど間に位置し、双方からの電力を受けとめ首都圏に供給するのと同時に、両発電所へ外部電力を供給する役目をもった新福島変電所があります。完成当時、東洋一の大きさを誇った新福島変電所は、まるで山の裾野に壮麗な城廓のようにそびえ、季節によっては山から降りる濃厚なヤマセが変電所に降り注ぎ、雲の中に漂う城のごとく私には見えました。
震災当時、変電所も故障し、両発電所に電力を供給できず外部電力喪失の要因となったといいます。富岡町から、私たちが暮らす東京首都圏の電力がきていることにもショックをうけました。
境界である富岡町は、外からもたらされるあらゆるものを、受け”留める”ことで、富める岡になったのだと私には思えます。同時にそこには繰り返される困難があり、富岡の名にはどこか祈りにも似た響きを感じるのです。
<その⑤>へとつづく